睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

9章

 今は夜。眠く、満ち足りている。甘く香る空気の中、あちこち走り回って、楽しく幸せだったからだ。夕方ずっと花に囲まれた寝台で眠った。花々のおかげで部屋はよい香りがただよい、私は奇妙な夢を見た。夢の中でどの花も笑った顔になり、笑う花々の魔法のような声が耳いっぱいに響いた。急に目が覚めて、まだ夢を見ているに違いないと思う。月光が部屋へ差し込み、美しい花々を照らしているからである。そして私が育てられていた質素な家のことをあれこれ思いめぐらす。かつてどうしてあのような所で耐えられたのだろう。今や美こそ人生のように思われる。

 とても幸福だ。

 夢見ごこちで横たわったまま月の光を見ていると、急に廊下側の扉が向こうから開かれる。外の通路は光に満ち、その輝きは、月の光も闇のように見えるほどだ。目がくらむ。それから修道士が大勢、光が強すぎて見えないが何か持って入って来る。彼らは出て行き扉を閉める。私は一人月光の中で、じっと動かない長身の、白いローブを着た二人と共に残される。二人が誰だか見なくてもわかる――アグマハドとカーメン・バカだ。

 初めのうち震えたが、急にあの子が影からすべり出て来る。あの子は指を唇に当てて黙るように合図し、微笑んでいる。

 「心配しなくていいよ。あの人たち、あなたが用意しろと言ったきれいな儀式の服をあなたに着せるところよ」とあの子は言う。

 寝床から起き上がり、祭司たちを見る。もう怖れてはいない。アグマハドは静止したまま立ち上がり、私をじっと見る。カーメンが私に近づく。両の手に白い衣を持っている。それは良質のリネンで、重厚な金の刺繍が表面を覆っている。何か字をかたどった刺繍のようだが、読めない。その衣はアグマハドのものよりもさらに美しく、これほど美しいものは神殿に来てこのかた見たことがない。

 うれしくて、その衣へ手を伸ばす。カーメンがそばに来て、私が今まで着ていた衣をわきへ脱ぎ捨てると、彼自身の手で新しい衣を着せる。

 それはかすかな芳香がしみ込ませてあり、私は大喜びでその香りを吸い込む。まるで王様の衣のようだ。

 カーメンは扉へと進み、開く。きらめく光がいっぱいに私を照らす。アグマハドはじっと立ったまま、私を見つめ続けている。

 あの子は感嘆のまなざしで私を見、喜んで拍手する。そして片手を差し出し、私の手を取る。「行こう」と彼女。一緒に廊下へ出る。アグマハドがすぐ後ろから来る。そこで思いがけない情景に驚き、立ちすくむ。広いその廊下は祭司たちでいっぱいで、かろうじて私の立っている場所を残して至聖所の扉近くまであふれている。ここに広いスペースが残されており、寝台が一つ置かれている。絹製の布がかぶせられ、その布には私の衣と同じような字の形の金の刺繍がしてある。寝台の周りはよい香りの花々が列をなして塀のように取り囲んでおり、床一面に摘み取られた花が敷き詰められている。群がり集まった大勢の祭司たち、白い服を着て目はじっと私に向け静止したままの祭司たちから、後ずさる。しかし美しい花々の色に私はうれしくなる。

 「この寝台はあなたのためにあるの」とあの子が言い、いざなう。他には誰一人、動きも話しもしない。彼女に従って前へ進み、寝台の上に庭園のボールを見つける。あの遊んだ時のボールだ。急にアグマハドが私を見ているかどうか気になって見てみる。彼は至聖所の扉のそばに立ち、私を見ている。カーメンは私とあの子のそばから至聖所の扉を見つめている。まるで何かの言葉を繰り返すように唇が動いている。誰一人としてあの子と私に腹を立てないようなので、あの子を振り返って見る。彼女はボールをサッと手に取り、大きい寝台の端に飛び乗る。その派手な動きに私も我慢できなくなって、同じようにもう一方の端に飛び乗り、共に笑う。彼女が私にボールを投げる。私は手で受け止める。でもそれを投げ返す前に、突然廊下は深い完全な闇に沈む。一瞬、ものすごい恐怖に息をのむ。でもすぐにあの子を見ることができるのに気づく。笑っている。彼女へボールを投げる。彼女は受け取り、そしてまた笑う。周りを見ると、他には何も見えず真っ暗闇である。前に闇の中で見たあのすさまじい姿が思い浮かぶ。今そこにいるのはあの子だが、私は恐怖のあまり大声で叫んでしまう。あの子はこちらへ来て、手に手を重ねる。そして言う。

 「恐いの? 私はちっとも。怖がらなくていいのよ。あの人たちは危害を加えないわ。あなたを崇拝してるんだもの!」

 彼女が話す間、音楽――陽気で素晴らしい音楽――が聞こえてきて、私は心臓の鼓動が早くなり、足が踊りたくてむずむずし始める。

 直後に、光が至聖所の扉を照らすのを見る。そして扉が開く。あのすさまじい姿が現れるのだろうか? そう思うと手と足が震える。でもまだ、かつてのように勇気を全部失ってはいない。あの子がいることと、楽しげな音楽のおかげで、独りぼっちの恐ろしさは近づいていない。あの子は私の手を握ったまま立ち上がる。二人で至聖所の扉に近づく。気が進まないが、うながされて抵抗できない。扉から中へ入る。それと同時に音楽がやんだ。再びすべてがしんと静まりかえる。至聖所の中はかすかな光がある。それは室内の向こう側から差して来るように見える。あの子は私を光のほうへ連れて行く。あの子が一緒にいる。怖くない。部屋の突き当たりに奥の院として小さい部屋があり、岩壁をくり抜いてできているようだ。十分見えるだけの光がここにはあるからわかる。一人の女性が低い座に腰かけ、膝に開いた大きな本に頭を近づけ前かがみになっている。目は即座にその人にくぎ付けになり、離せなくなる。その人を知っている。その人が頭をもたげ、その顔を見るのだと思うと、心がぞっとして震える。

 突然、あの子がいなくなっていることに気づく。至高の魅惑のせいで目はくぎ付けになっており見て確かめられないが、手が握り返されていないのでわかる。あの子は消えてしまった。

 私はあの神殿の並木道に彫られてあった彫像のようにじっとしたまま待つ。

 とうとうその女の人は頭をもたげて私を見る。血が戦慄し冷たくなる。その鋼鉄に彫られたような目のために、私は凍りついてしまったかのようだ。でも恐ろしいその光景を阻んだり目をそらしたり、自分の目をそれから隠すことさえできない。

 「そなたは私に教わりに来た。よろしい、教えよう」と女の人は言い、その声は静かな楽器の音のように低く、快く聞こえる。「そなたは美しいものや花が好きだ。ただ美しいものとだけ生きるならば、偉大な芸術家になるだろう。でもそなたはそれ以上の者とならねばならない」女の人は私に手を伸ばす。私は意志に反して手を差し出すが、ほとんど触れることはできない。ほんのわずかに手を触れただけで、私の手にバラの花があふれ、辺り一面にその香りがあふれる。女の人は笑う。その声は音楽である。きっと私の顔は彼女を喜ばせているだろうと思う。

 女の人は言う。「さあ来るのだ。そばに立ちなさい。そなたはもう私が怖くないのだから」目はバラにとらわれたまま、私は近づく。顔を見ていなければ怖くない。

 彼女は腕を回して私を抱き寄せる。突然、その黒いローブがリネンや布でできたものではないとわかる――それは生きている――とぐろを巻いた蛇のローブだ。彼女にぴったりと巻き付き、まるで柔らかい布が垂れているように見えるのが、少しだけ離れて立つとわかった。今や恐怖に打ちのめされる。叫ぼうとするができない。逃げようとするができない。また彼女は笑う。今度はその笑い声は耳ざわりな音である。でも見ている間にすべては変わって、ローブは黒いままだが生きてはいなくなった。恐怖に凍りつく中、驚き息を止めて立ち尽くす――彼女の腕はまだ私に回してある! 彼女はもう一方の腕を持ち上げ、私の額に当てる。すると恐怖が完全に消えた。幸福で安らかな感じがする。目を閉じているが見える。意識している。でも動きたいとは思わなかった。女の人は立ち上がり、その腕で私を引っ張り上げ、それまで彼女が座っていた石の座に私を座らせる。頭が後ろの岩壁に当たる。私は何も言えずじっとしているが、見ることができる。

 女の人は背筋をピンとのばし、腕を頭上高くのばす。再び蛇たちが見える。蛇たちは激しく動き、活気に満ちている。衣服だけでなく、彼女の頭にも蛇が。髪が蛇になっているのか、蛇が髪の中にいるのか、見分けがつかない。両手を頭上高く組むと、その恐ろしい生き物は彼女の腕に巻き付きながら吊り下がる。だが恐ろしくない。恐怖は永遠に去ってしまったようだ。

 ふいに至聖所に別の存在がいることに気づく。アグマハドだ。奥の洞窟の入り口に立っている。

 驚いてその顔を見る。アグマハドの顔は静止している。目はぼんやりして何も見ていない。そして私は知る、本当に見えていないのだ、と。この姿、この光、私自身が、すべて彼には見えないのだ。

 女の人はこちらを向いていたか、または身を傾けていたので、私には彼女の顔が見える。その目は私を見ており、目も他の部分も動きもしない。それらのはがねに刻まれたような目は、もう私を恐怖でいっぱいにすることはないが、何か鉄製の器具で押さえつけるかのようにしっかり私をつかんでいる。彼女を見ているうちに、ふいにあの蛇たちが変化し消え、しなやかにひだを重ねた柔らかいグレーの、かすかに光る服になる。そして束になった蛇たちとその恐ろしい目は、星のように輝くバラの花束になる。バラの花の強くてきつい香りが至聖所に充満する。するとアグマハドが微笑む。

 「わが女神はここにおられる」と彼は言う。

 「あなたの女神はここにおられる」と私は言う。そして自分のその声を聞くまで、しゃべったこと自体知らずにいた。「女神はあなたの望みを知らせてくれるのをお待ちです」

 彼は言う。「教えて下さい、女神は何のローブをお召しか」私は答える。「光がきらめき、肩にはバラの花がある」

 「私は楽しさを望みはしません。わが魂はそんなものを見るのも嫌です。私は権力を求めます」と彼。

 今まで私の目を見すえる彼女の目が何を話すか教えていたが、今、再び彼女の声が聞こえる。

 「神殿の内部でか?」

 私はその言葉を繰り返す。無意識でいるため、自分の声が反響して聞こえ、そのことに気づく。

 「いいえ」とさげすむようにアグマハドが答える。「神殿の壁の外へ出て、民と入りまじり、彼らに私の意志を及ぼさねばなりません。そうするための支配力を求めます。それは私に約束されたのですが、まだ実現していません」

 「なぜならばそれを実現させる勇気と強さがそなたにはないからだ」

 「もうそうではありません」とアグマハドは答え、私は初めて彼の顔に情熱の炎を見る。

 「ならば、あの運命の言葉を唱えるがよい」と女神は言う。

 アグマハドの顔つきが変わる。少しの間、彼はじっと佇んで、顔は冷たさを増し、どんな彫刻よりも無表情な石の顔のようになる。

 「私は人間性を放棄します」とついに彼は、ゆっくりと運命を決する言葉を口にする。するとそれらの言葉は空中にとどまり、漂っているようだ。

 「よろしい。だがそなた一人だけではかなわぬ。そなたのように、すべてに勇敢になりすべてを知る用意のできている者たちを、連れて来なければならない。私には十二人の誓いを立てた奉仕者が必要なのだ。その者たちを連れて来るがよい、そなたはそなたの願望とともに」

 「その者たちは、私と同等でしょうか?」とアグマハドは尋ねる。

 「願望と勇気においては同等だ。力においては違う。それぞれが違った願望を持っているであろうからな。それゆえに彼らの奉仕は我が意にかなうであろう」

 アグマハドは一瞬、間をおいてから言う。「わが女神よ、御意のままに。ですがたいへん難しい任務なので助けが必要です。どうやって彼らを誘い込んだらよいのですか?」

 それを聞いて女神は、異様な身ぶりで手を結んだり開いたりしながら腕を振り回し、それが何を意味するかまるでわからない。その目は燃える石炭のようにきらめき、すぐに冷たく、暗くなる。

 「教えよう。わが指示をきちんと守れば、恐れる必要はない。私にだけ従うならば、そなたは成功するであろう。この神殿内にすべての要員(エレメント)がそろっている。十人の祭司が私たちに服従する準備ができているのだ。その者たちは渇望に満ちている。私のお気に入りとなろう。そなたは勇気とぐらつかなさを示して見せれば、私のお気に入りとなろう――その時までは他の者よりずっと多くを求められよう」

 「十二人という数を満たすには、もう一人必要ですが?」とアグマハド。

 再び私に女神の目が向けられる。

 「この子は私のもの――選ばれた、お気に入りの下僕。この子に教えよう、この子を通してそなたに教えよう」

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