睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

6章

 「何かお望みかな?」男ははっきりと、しかし低い声で言う。

 驚いて彼を見る。服からして修道士のようだが、私の望みを満たせるかのように言っている――そしてただの召使いのような話し方ではない。

 「食事はしたところなの」と答える。「何も望みはないよ――この部屋を自由に出ること以外は」

 「それなら」男は素早く答える。「お安い御用。さあこちらへ」

 驚いて彼を見つめる。この修道士は私が外へ出られない状況を知っているはずだ――それに関するアグマハドの意思も。あえてアグマハドに逆らうというのか?

 「だめだよ」私は答える。「高位の祭司にここへ閉じ込められているんだよ。抜け出したら罰を受けるよ」

 「こちらへ!」としか彼は言わない。そう言いながら何かの合図のように片方の手を上げる。肉体の痛みに私は大声で叫ぶ。なぜなのかわからない。感覚が邪悪なものに捕まってしまったようだ――ある種の抑えられない力が体をつかんで揺らす。一秒後、私は謎めいた訪問者の横に立っている。手はしっかりと握られている。「振り返るな!」大きい声で彼は言う。「一緒に、こちらへ」

 後について行く。でも扉のところで振り向いてみたくなる。大いに力をふりしぼり、私は振り返る。

 振り返るな、だなんて少し不思議だ。彼が私を急いで部屋から連れ出そうと懸命なのも不思議だ。目をひとたびそちらへ向けると、魔法にかかったようにそのままになる――彼が鉄のようにしっかりつかむ手に抵抗しながら。

 そこに見たのだ、私自身を――私自身の無意識の姿と言おうか――そして初めて、この同行者がこの世の住人ではないとわかった。再び影の領域に入り込んだのだ。

 だがこの驚くべきことは、もっと大きな別の驚異に完全にのみこまれ、消えてしまった。――その同行者が部屋から私を連れ出そうとすることに反抗できるほど強くなるような出来事だ。

 睡蓮の女神がいたのだ。寝台にもたれかかりながらその後ろに立ち、あの最初に水を飲む姿を見た時のように前かがみになっているのだ。

 そして女神の話す声がする。その声は水のしたたり――湧き出る水のしぶきのように聞こえる。

 「起きなさい、眠れる者よ――もう夢を見るのも、この呪われた魔法の中にいるのもおしまいです」

 「女神さま、そうします」と心の中でつぶやく。すぐに私は霧につつまれたように感じる。かすかに意識はある。――知っているのだ、自分が美しい女神の望み通りにすることで自然な状態に戻ろうとしていることを。徐々に私は現実に戻る。そして人のいない空っぽの部屋を見るために、うんざりと重いまぶたを開く。謎の修道士はうれしいことに去ってしまった。しかし、何ということだろう! 睡蓮の女神も私を残して去ってしまった。本当に部屋は空っぽだと感じる。空っぽの部屋を見回して心は重苦しい。優しい花の女神を、女神というよりもむしろ子供の心で、美しい母のように感じていた。その優しい風貌を恋い慕う。でもそこにいない。ただもう私から隠れてこの部屋にはいないことを知り過ぎるくらい知るしかない。彼女がいないことを魂で知り、さらに目でも悟らされる。

 体を起こすのがけだるい。先ほどの奮闘で十分疲れた。部屋のすみの、最愛の花を隠してある寝台の向こう側へ行く。わずかにカーテンを引き宝物を見ると、ああ、もう愛らしい花はしおれてしまっている。立ち上がり、確かに水をあげたはずだよね、と自分に言って聞かせる。確かに茎は低い方のエレメントである水に深く差してある。でも花は死んだようにうなだれて、壺のふちの上にぐったりと曲がっている。

 「花よ」傍らにひざまずきながら嘆く。「あなたも行ってしまったの? ――僕は完全に独りぼっちなの?」

 壺から、ものうげにうなだれた花を取り、服の中の胸の部分にしまう。そして今は完全な悲しみとともに寝床にふたたび倒れ込み、目を閉じて視界を真っ暗にし、幻を見ないように努める。

 でもどうやって? 内なる目からビジョンを隠す方法を誰が知っていよう。内なる目はどんな闇にも見えなくされない視力をもつ恐ろしい賜物なのだ。何をどうやっても見えなくすることはできない。

 長く静かな眠りから目覚めた時、もう夜が地上に降り立っていた。外には月が光り、その銀白色の光の筋が高窓を通って部屋の中へ差し込んでいる。室内の光の筋が白い衣の裾を照らす。金色で刺繍された裾を。見知った刺繍だ――私はゆっくりと視線を上げる。きっとそこにアグマハドがいるのだろう。果たしてそこに彼はいた。彼はちょうどほの暗い影の中に立っている。だが顔は見えなくてもその姿は他の人と容易に間違わない。

 まったく動かないで横たわっている。それなのに彼には私が目覚めたことがすぐにわかったらしい。

 「立つがよい」と彼は言い、それに従う。寝床の横に下り立ち、怖さのあまり大きく見開いた目で彼を見据える。

 「それを飲みなさい」と彼。横を見ると赤い液体がなみなみとつがれたカップが置いてある。それを私は飲む。やみくもに、この飲み物が今夜の沈黙の時間に私にもたらされる運命であるどんな試練にも耐える強さをくれることを願いながら。「来なさい」とアグマハドは言い、後について扉へと向かう。外の新鮮な空気と自由にこの先ありつけるかな、と思い半分無意識に窓を見上げる。突然、目を見えなくされたようだ。急いで目に手を当てる。柔らかい布を巻かれ目隠しされている。驚きと恐怖で黙り込む。体を支えられ、慎重に前へ導かれているのを感じる。支える手がアグマハドのものに違いないと思い震えてしまうが、抵抗するには無力であり、おとなしく触れられるままにしている。

 ゆっくりと一同は前へ進む。私の部屋を出て左へ行ったり右へ行ったりしながら相当の距離をやって来た。だがどのくらい、どちらの方向へ来たのか推測できない。目隠しされた状態で当惑したままだ。

 一行はまったくの沈黙の中、立ち止まる。周りから私を支える腕は取り払われ、目隠しが外されるのがわかる。そこに見えるのはまったくの暗闇なので、まだ目隠しの布が巻いたままなのか確かめるため、手で顔をさわる。ない。――目隠しは取り除かれた――目は開いている――でも、ただ深く完全な闇のうつろな壁を見つめるだけである。頭痛とめまいでフラフラする。さっき飲んだあの濃い飲み物の匂いが頭を混乱させているようだ。じっとしたまま、意識がもとにもどり自分の居場所がわかるよう願う。

 そうして待つ間、不意にそばに寄り添う別の存在がいるのに気がつく。私は避けはしない。その存在の美しさと輝かしいようすを知っているような気がしたのだ。その見知らぬ存在を魂が好む言葉にならない感じ、あこがれに心がはずむ。

 沈黙のただ中、ふいに快い低い声が耳のすぐ近くに聞こえてくる。

 「アグマハドに言うがよい、規則にそむいていると。祭司は一人だけが至聖所に入ってよい。それ以上はもう入ってはならぬ」

 その水の流れるような声は睡蓮の女神のものだと私は思う。そこに祭司がいるのかどうかも知らないが、迷わず女神の言う通りにする。

 「祭司は一人だけが至聖所に入ってよい」私は続けて言う、「それ以上はもう入ってはならぬ。そしてここにいるアグマハドは規則にそむいている」

 重々しい口調でアグマハドが返事する。「女神のお言葉を私がぜひお聞きしたいです」

 「彼に言うがよい」女神の声は私の魂を恐怖でゾクッとさせ、体が震える。「彼の前にわが姿を現すことができるならば、ここで待っていたりはしなかった、と」

 女神の言葉をそのまま伝える。アグマハドの返事はなく、動く音がする。――足音だ――そして扉がそっと閉まった。その時、柔らかい手が私に触れ、それと同時にかすかな光を胸に感じる。すぐにその手は、先ほど胸に隠した蓮の花のような気がして、服の中からしおれた花を引き出そうと手を入れる。でもすぐにその無用な試みはやめた。目を魅了する光に顔を上げると、そこに睡蓮の女神が立っている。私の幼い心で女神を呼び始めると、かすかな霧に包まれたような、ぼんやりとしたその方の姿を見る。だがそこにいることを喜ぶほどはっきりとは見えない。彼女が胸のあたりでしおれた花を手に持っているのが見える。それは私から取ったのだ。さらに驚いた。花はもっとしおれ、くすんで、完全に枯れているのだ。しかし残念ではない。花が枯れてゆくにつれ、女神はより輝かしく、目にはっきり見えるようになってきたからだ。花が完全に枯れ果てた時、彼女は私のとなりに立つ。自らの光に照らされて、はっきり見える明瞭な姿で。

 「もう恐れなくてよいのですよ」と彼女は言う。「あの者たちはあなたに危害を加えられません。あなたは私の領域の中にいるのだから。たとえ彼らがあなたを偽りと悪の牢屋に入れようとも、恐れなさるな。そしてすべてのことを観察し、見るものすべてを憶えておきなさいね」

 闇は彼女の自信に満ちた優雅な言葉で照らされ、明るくなっている。私は勇気が出て、力に満たされる。

 彼女は手を伸ばして私に優しく触れる。すると私は輝きに満たされる。これまで経験したどんな光輝よりも温かい輝きだ。

 「エジプトのすばらしい花、睡蓮は聖なる水に住んでいます。その水は清らかで静寂な中に、ちょうどよく永遠の休息所を作り出しています。私は花の聖霊です。真理の水に生かされています。そして我が命は天界の息すなわち愛で作られているのです。でも私の愛の翼が今もなお卵を抱いているこの世の休息所は退廃し、叡智なる天界の光がそこから追い出されているのです。堂々たる睡蓮の聖霊は闇の中では長く生きられません。太陽が沈んでしまえば花はしおれ、死にます。私の言ったことを憶えておきなさい、我が子よ、心に刻みつけるのです。あなたの心がそれらを理解できるようになるにつれて、それらはあなたに多くのことを教えるでしょう」

 「教えてください」と私は言う。「僕がまた蓮のところへ行けるのはいつでしょうか? 明日、太陽の光の中に一緒に連れて行ってくれませんか? 今は夜だし、僕は疲れているので。あなたの足もとで眠ってもいいですか、そして明日になったら庭園へ連れて行ってくれますか?」

 「かわいそうな子」と彼女は言いながら私へ向かって身をかがめ、その息がかかる。彼女の息は野の花のように甘く香る。「あの者たちはどれだけあなたにむごいことを強いていることでしょう! この腕で休みなさい。あなたは私の透視能力者で、我が愛の国を啓蒙する人なのだから。強さと健やかさが宝石のようにあなたの表情に宿るように。見守ってあげましょう、お休み、我が子よ」

 言われるままに眠りにつく。冷たく堅い床(ゆか)の上なのに、頭部は柔らかい腕に落ち着き、深く、夢のない、乱されぬ眠りに落ちる。

 

 *     *     *

 

 アグマハドの所有する書物の一つに秘密の記録がある。その晩はつぎのように一言だけ記された――「失敗」。

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