睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

5章

 連れて来られたのは、祭司たちが朝食をとっている大広間だった。今はもうそこにはほとんど人がいない。しかしアグマハドとカーメンは窓のそばで、ひそひそ声で話し続けている。その間、二人の修道士が私をテーブルへ案内し、油たっぷりのケーキと果物とミルクを運んで来る。この何も口をきかない若い修道士たちが私に給仕するのは奇妙なことに思える。神殿の並々ならぬ秘儀に関し、彼らは私より経験を積んでいるだろうから、尊敬の念すら持てるからだ。ケーキを食べながらあれこれ考える。なぜ彼らは私と口をきかないのだろう。これまでに会った見習いたちもみんなそうだ。でもこれまで神殿で過ごした時間を一瞬ざっと振り返ってみると、私は一人きりにされたことは一度もなく、誰か一人は一緒だったことを思い出す。今もアグマハドとカーメンが部屋にとどまっているため、私に給仕しているこの若者たちの顔に恐怖の沈黙が見て取れる。その恐怖はよくある、教師が目を光らせている時のような恐ろしさではなく、ある魔力のような視力の見手が、だまされまいと見張っている時のような恐怖であると私は想像する。二人の若者はどちらの顔にも表情と言えるものが見られない。彼らはロボットのように振る舞う。

 再びものすごく疲れた体も、食べ物のおかげで元気が出た。食事が終わると立ち上がって高窓からセボウアが庭園にいないか見ようとする。ところがアグマハドが歩いて来て窓と私の間に割って入る。そして感情のない目つきでじっと私を見つめる。その目つきのせいで彼を心底、恐くなる。

  「来なさい」と彼は言う。そして向こうへ歩き出す。うつむき、ついて行く。私の新たなエネルギーと希望はすべてなくなってしまった。なぜ? わからない。なぜ私は白い衣の刺繍をほどこされたすそを見つめているのかわからない。――そのすそは私の前で、地の上をなめらかにすべるように進んで行く。死の運命に向かってついて行くような気持ちがする。

 我が死の運命! アグマハドはこの神殿を代表する祭司で、大祭司たちの中で真の統率者だ。我が死の運命。

 廊下を通り、大きい回廊に出る。神殿の門から至聖所へと至る通路だ。それを見て恐怖でいっぱいになる。出入口から日光が差し込んで、言葉では言いようのない影を嘲っているにもかかわらずである。アグマハドに対する恐怖は根深く、このように二人だけにされていても、完全な服従と沈黙のうちに従っている。回廊を行く――不承不承の重い足取り一歩一歩があの恐ろしい扉――夜の闇の中に忌まわしい姿が現れる、あの扉の近くに私を引き寄せる。ある種の恐怖のあまり壁を見つめる。苦しむ魂が霊的な尋問を受ける際の恐ろしい道具をじっと見つめるように。ひとたび目を開けて身に迫っている破滅の運命のようなものを見たならば、目がくぎ付けになって、さらにその対象物を見続けるしかない。そのように私も盲目的な恐怖を長い廊下の壁に投げかけているのだ。想像の中で廊下を進むにつれ壁が間近に接近し、今まで生きていた明るく美しい世界のすべてから私たちを遮るように思えてくる。

 夢中ですべすべした恐ろしい壁を見つめながら、次のことに気づく。こうして近づきつつあるのは、至聖所の扉に直角に位置している小さな扉である。その扉は人目につかないが異常なくらい張りつめた雰囲気がある。廊下の向こうの端はとても深い闇で、その反対側が太陽の光で輝いていることで際立って対照的なせいだろう。

 その扉に近づく。今言ったように、それは至聖所の壁と直角に位置している。至聖所の扉に近いが、廊下の壁にある扉である。

 一歩一歩が私自身の意志と無関係に進んでいるような感じがする。確かに意志は私に太陽の光を思い出させようとしたはずだ。世界を花々で美しくする太陽の光――、人生をぞっとするような、想像できない夢ではなく、輝かしい現実にする太陽の光を!

 しかしそれは――その扉は――そこにあった。そしてアグマハドが立ち、それへ手をかけている。彼は振り返る。

 「心配するな」静かな落ち着いた声で言う。「至聖所は我々の居場所の中心で、その付近は我々を強さで満たすに十分なのだ」

 同じ経験をしたことがあった。庭園で初めてアグマハドが、同じように励ましてくれた時だ。苦労して視線を上げる。彼を見れば、その声のみごとな落ち着きの中に本当の励ましがあるかどうかわかるかもしれないからだ。果たしてそこには耐えがたいほど冷静な青い目があるだけだった。冷酷で感情のない青い目。その瞬間その目の中に、完全に餌食を前にした獣の残酷さを見る。

 彼は扉へと向き直り、それを開く。そして中へ入って扉を押さえ、私を通す。――そう、後ずさりするかと見えた私の足取りを、深みへと引きずり込んだ。

 中に入ると部屋の天井は低く、壁の高いところにある大きな窓が中を明るくしている。窓にはカーテンがあり、豪華な生地のひだが垂れ下がっている。部屋の片隅に背の低い長椅子の寝台が置かれている。それを一目見て、なぜかギョッとする。すぐにゆうべ私はその寝台で眠ったに違いないと思う。部屋は豪華に飾られており、美しいものがたくさんあったにもかかわらず、寝台の他は何も目に入らない。縮みあがる心でただ不思議に思う。なぜこの寝台は私が眠ったあの部屋から運んで来られたのだろう。

 憶測にふけりながら、突如、静かなことに気づく。完全な静けさ、そして孤独。

 急に不安になって振り返る。

 まさに! 私は一人きりだ。彼は去ってしまった――恐怖の祭司、アグマハドは――私をこの部屋に残し、何も言わずに行ってしまった。

 これはどういうことだろう? 扉を開けようとする。固く閉じられ、閂がかかっている。

 とらわれの身となった。これはどういうことだろう。がっしりした石の壁を見回す――高い窓を見上げる――近くにあるはずの至聖所を思う――寝台に身を投げ出し、顔を覆う。

 何時間もそこで横たわっていたに違いない。あえて起き上がらず、騒いだりもしなかった。アグマハド祭司の青い冷酷な目のほかに訴える相手もいないのだ。しっかり目を閉じて寝床に横たわり、思い切ってこの牢獄のようすを見ようともせず、決して夜が来ないようにと祈っている。

 まだ一日が始まったところだ。セボウアと庭園にどれくらい長くいたかわからないけれど、そう確信していた。日は高く、窓から光が差し込んでいる。長い時間がたった後、チラッと光るものを見る。部屋を見回す。誰かが中にいるのだろうか。でもカーテンの後ろに隠れているのでなければ、そこには何もない。

 独りぼっちだ。勇気を奮い起こして太陽の光を見上げる。窓から差し込み、物を輝くばかりに美しく見せる太陽の光を。それはまだ本当に存在しているのだ、とわかり始める。このところのひどい経験にもかかわらず、私は太陽の光を愛する少年にほかならないのだ。

 高窓によじ登って見たいという魅力は強くなり、ついに燃え上がる。そうしたいという衝動に駆られると、まだ少年の私はがむしゃらな目的と、むやみな探求心が押し殺せなくなった。とにかく周囲にあるすべての恐怖をすっかり忘れて、子供っぽいその目的に夢中になり寝床から起き上がる。壁はつるつるして登れなそうだ。思うに、窓の下にあるテーブルに立てば窓枠に手が届き、そこで身を持ち上げれば外が見えるのではあるまいか。すぐにテーブルをよじ登る。しかし上へ伸ばした両手が、わずかに窓枠に届くだけだ。少し飛び上がってどうにか窓枠につかまり、身を引き上げる。この冒険心は少しは満たされた。外を見ることに成功したからだ。

 だが見たものはたいしたものではなく、楽しい心は冷静に戻った。

 そこに庭園はなかった。窓は小さな土地の一角に面しており、そこは高くて黒い壁に囲まれている。すぐにその壁はどうやら神殿のもので、外部の壁ではないらしいことに気づく。その土地の一角は大きな建物のちょうど中心部に囲まれている。円柱と屋根が左右から向こう側へとそびえ立ち、壁には装飾がないのが見える。私の見ているこの窓が唯一、その構図を見てとれる窓である。

 ちょうどその時、部屋の中でかすかな音がした。私は急いでテーブルの上に降り立ち、びくっと振り向く。音はまだ聞こえる。窓の一つを半ば覆っている分厚いカーテンの向こうから、聞こえてくる。その場で息を殺し、この白昼のきらめく太陽の光の中でさえ、何に出会うかいくぶん恐いのだった。私が入って来た扉以外に、部屋に入る方法があるとは思えない。だからあえてそこに健全な人間がいることを願っても望み薄であろう!

 恐怖はすぐに消えた。カーテンが少し後ろに引かれ、黒い服の修道士――今まで見たことのない――がそうっと忍び込んで来る。その人目を忍ぶ態度を不思議に思うが、恐怖感はない。彼は手に、堂々たる白い睡蓮の輝かしい花を握っているからだ。私はテーブルから飛び降りて彼のそばまで寄って行く。目は花に釘づけだ。十分に接近したところで、彼は低い声で急いでこう言う。

 「これはセボウアからです。大事に世話してください。ただし、祭司には誰にも見られないように。大事に育ててください。助けが必要な時に助けてくれるでしょう。セボウアはあなたさまに言った言葉をすべて忘れないように、と忠告しています。そして何よりも、本当に美しいがゆえに愛するものと、自然な好き嫌いの心を、信頼するように、と。以上が伝言です」そう言いながらカーテンへ後ずさりして行く。「セボウアのために命を賭けてここへ来ました。この扉のそばに決して来ないよう、そしてこの扉があると知っているのを悟られないよう、お気を付けください。そこは大祭司アグマハドの私室に出入りできるのです。あえてそんなことをして重い罰を受ける危険を冒す人はいませんが」

 「どうやってここへ来られたの?」大きい好奇心から私はそう尋ねる。

 「あの方々は朝の儀式の最中です――祭司全員が、です――だから私は見つからずにここへ来られたんです」

急いで扉をすり抜けて行こうとしている彼に抱きついて泣き叫ぶ。「教えて、どうしてセボウアは来なかったの?」

 「セボウアは来られないんです。厳しく監視されているんですよ。あなたさまに近づこうとしないように」

 「どうして?」私は驚き、失望して聞く。

 「わかりません」修道士は私が服を握っているので引き抜きながら言う。「今言ったことを憶えておいてください」

 そしてあわてて扉から出て、背後に閉めて行く。気がつくと私に厚いカーテンが半ばかぶさっている。突然彼が来て去ったことのショックから立ち直ると、すぐにカーテンを払いのけて離れ、睡蓮を手に取る。

 憶えておくよう言われた言葉をじっくり考えるよりも前に、最初に思ったのは、このかけがえのない花を安全な場所に置くことだった。まるで愛する人の生きた姿であるかのように、いとしげに持つ。どこかに気づかれずにこの花を隠しておく場所はないかしら、と辺りを見回す。

 急ぎ探していると、寝台の頭の部分、カーテンが下がっている所から少し離れた所に隠し場所を見つける。ここなら少なくとも、当面は隠しておけそうだ。呼吸する余地もあるし、カーテンが動かされない限り見つかることもないだろう――それに他のどこよりも見つかる可能性が少なそうだ。儀式が終わってアグマハドが入って来るといけないから、あわててそこへ置く。花を隠すと次に水を入れる容器を探す。そうしなければこの花は、心から愛する水という元素を与えられず、私の友として生き長らえることができないだろう。

 陶製の壺を見つけ、そこに水を入れ花を活ける。そうしながらも、祭司たちがこの壺のないことに気がつき、私を問いただしたらどうしようかと思う。そのような非常事態にはどうしたらいいかわからないが、もし花が見つかってしまったら、ただ何らかのインスピレーションが湧いてセボウアに責任が及ぶのを避けられるよう望むだけだ。詳しいことはわからないが、セボウアは私に関連することでとがめられていることは明白なのだ。

 寝床へ行って最愛の花のそばに腰かける。その花を太陽の光のもとに置き、美しさに耽ることを私がどれほど望んでいることか!

 こうして一日が過ぎた。その後は誰もここへ来なかった。太陽が窓から去って行く。夕暮れの闇が窓に訪れる。今もなお一人きりだ。これ以上、怖い思いがつのるとは思えない。この夜が恐怖の苦しみをもたらすとは考えられない。私は深い静けさに満たされている。その静けさは昼間の長い、邪魔されぬ時間が生み出したか、あるいは美しいが隠されて見えない花によって作り出されたか、どちらかであろう。かつてこの目にこれほど輝かしく繊細な美しさは見たことがない。前の晩に追い払えなかったあの耐えがたい幻影は今はない。

廊下に通じている扉が開いたのは、すっかり暗くなってからだ。アグマハドが入って来る。後に若い祭司が一人、食べ物と奇妙な匂いのする飲み物を持って入って来る。寝床から動かないでいたため、食べ物に飢えてはいない。それまで食べ物のことを思い浮かべもしなかったが、確かに何も食べず目が回りそうだ。私は飲食欲に満ち満ちて起き上がる。若い祭司が食事を運んで来て脇へ置くと、まず飲み物を飲む――それは実際、最初にそこへ置かれた――それで私の疲労は急に癒される。

 飲んでいる間、アグマハドは私を見ている。カップを置くと私は新たな反抗心で彼を見上げる。

 「これ以上この部屋に独りきりにされたら、発狂してしまうよ」と勇気を出してはっきり言う。「これまで人生で、こんなに長く放っておかれたことは一度もないもん」

衝動的にそう言った。一人きりで長い時間を過ごしていた時、それほど恐ろしくはなかった。だが今、急にこのたまらない孤独が不安になり、はっきりと気持ちを言ったのだ。

 アグマハドは若い祭司に言う――

 「食べ物をそこに置いて、本を取って来なさい。私の部屋の寝台に置いてある本だ」

若い祭司は使い走りに出て行き、アグマハドは黙っている。そして私は――言うだけ言ってしまうともう言葉もなく、次はこれを食べてしまわねば、と――皿から油たっぷりのケーキを取り上げ、いそいそと食べる。

 その五年後には、このようにアグマハドに立ち向かうことはできないであろう。このように出された食事を全部食べてしまうこともできないであろう。しかし今はこの上ない無知と若さゆえの無頓着のため大喜びで食べている。その時は祭司の理解力を測るものさしを持っていなかった。――彼の厳しい冷酷さを受け入れるだけだ。他にどうすることができよう? 私はまだ無知なのだから。その上、彼の冷酷なやり方――冷酷であることの目的に関する手がかりはなかった。私は完全な闇の中にいる。だがこれからも今までと同じようであるとすれば、神殿での生活は期待していたものと違うということがよくわかった。そしてすでに心の中で、こんな不幸なやり方の中で生きていくことになっているなら、あの恐ろしい廊下を通ってでも脱走しようという子供っぽい考えを抱いている。後から思うと私がどれだけよく監視されているか、その時はほとんど知らないのだった。

 私が食べたり飲んだりしている間、アグマハドは何も言わない。やがて若い祭司が戻って来て扉を開け、中に入って来る。手に大きな黒い本を持っている。彼はそれをテーブルの上に置き、アグマハドに言われてテーブルごと寝床の近くへ引っ張って来る。それから部屋の隅のランプを持って来てテーブルの上に置く。彼が明かりをつける。それが済むとアグマハドは言う。

 「孤独を感じるにはおよばぬ。この本のページを開いて読むとよい」

 そう言いながらアグマハドは部屋から出て行き、若い祭司がそれに続く。

 すぐにその本を開く。その時のことを後から振り返ると、私はたいていの少年と同じように、すごく知りたがりだったようだ。いずれにしても、何か新しいものがあればとりあえず釘付けになる。その本の黒い表紙を開き、最初のページをじっと見つめる。美しく彩色されたページだ。喜んで見ていると、少し白っぽい色の中から文字が見えてくる。文字は灰色の背景色から文字として輝くばかりの色にきわだち、まるで火のように見える。題名はこうだ――『魔術の力と技術』。

 それはいくぶん無学な少年の私にとって無意味な内容だ。アグマハドはこのような本を私に与えられるなら、一緒にいる仲間をくれればいいのに。

 むやみにページをめくってみる。何も理解できない。その本当の理由は、使われている言葉のほかに内容にもあった。こんな本を読むように私のところへ持って来るなんて、ばかげたことだ。読みながら大きなあくびをし、本を閉じて再び寝床へ横になろうとする。その時、私は独りではないことに気づき、驚く。本とランプのあるテーブルの反対側に、黒い服を着た男が一人、立っている。私を真剣に見ているが、見返すと少し後ろに後ずさるようだ。どうやってこんなにも静かに部屋へ入って来て、音もなく私のそばへ近寄れたのか、不思議だ。

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