睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

6章

 「何かお望みかな?」男ははっきりと、しかし低い声で言う。

 驚いて彼を見る。服からして修道士のようだが、私の望みを満たせるかのように言っている――そしてただの召使いのような話し方ではない。

 「食事はしたところなの。何も望みはないよ――この部屋を自由に出ること以外は」

 「それなら」男は素早く答える。「お安い御用。さあこちらへ」

 驚いて彼を見つめる。この修道士は私が外へ出られない状況を知っているはずだ――それに関するアグマハドの意思も。あえてアグマハドに逆らうというのか?

 「だめだよ。高位の祭司にここへ閉じ込められているんだよ。抜け出したら罰を受けるよ」

 「こちらへ!」としか彼は言わない。そう言いながら何かの合図のように片方の手を上げる。肉体の痛みに私は大声で叫ぶ。なぜなのかわからない。感覚が邪悪なものに捕まってしまったようだ――ある種の抑えられない力が体をつかんで揺らす。一秒後、私は謎めいた訪問者の横に立っている。手はしっかりと握られている。「振り返るな!」大きい声で彼は言う。「一緒に、こちらへ」

 後について行く。でも扉のところで振り向いてみたくなる。大いに力をふりしぼり、私は振り返る。

 振り返るな、だなんて少し不思議だ。彼が私を急いで部屋から連れ出そうと懸命なのも不思議だ。目をひとたびそちらへ向けると、魔法にかかったようにそのままになる――彼が鉄のようにしっかりつかむ手に抵抗しながら。

 そこに見たのだ、私自身を――私自身の無意識の姿と言おうか――そして初めて、この同行者がこの世の住人ではないとわかった。再び影の領域に入り込んだのだ。

 だがこの驚くべきことは、もっと大きな別の驚異に完全にのみこまれ、消えてしまった。――その同行者が部屋から私を連れ出そうとすることに反抗できるほど強くなるような出来事だ。

 睡蓮の女神がいたのだ。寝台にもたれかかりながらその後ろに立ち、あの最初に水を飲む姿を見た時のように前かがみになっているのだ。

 そして女神の話す声がする。その声は水のしたたり――湧き出る水のしぶきのように聞こえる。

 「起きなさい、眠れる者よ――もう夢を見るのも、この呪われた魔法の中にいるのもおしまいです」

 「女神さま、そうします」と心の中でつぶやく。すぐに私は霧につつまれたように感じる。かすかに意識はある。――知っているのだ、自分が美しい女神の望み通りにすることで自然な状態に戻ろうとしていることを。徐々に私は現実に戻る。そして人のいない空っぽの部屋を見るために、うんざりと重いまぶたを開く。謎の修道士はうれしいことに去ってしまった。しかし、何ということだろう! 睡蓮の女神も私を残して去ってしまった。本当に部屋は空っぽだと感じる。空っぽの部屋を見回して心は重苦しい。優しい花の女神を、女神というよりもむしろ子供の心で、美しい母のように感じていた。その優しい風貌を恋い慕う。でもそこにいない。ただもう私から隠れてこの部屋にはいないことを知り過ぎるくらい知るしかない。彼女がいないことを魂で知り、さらに目でも悟らされる。

 体を起こすのがけだるい。先ほどの奮闘で十分疲れた。部屋のすみの、最愛の花を隠してある寝台の向こう側へ行く。わずかにカーテンを引き宝物を見ると、ああ、もう愛らしい花はしおれてしまっている。立ち上がり、確かに水をあげたはずだよね、と自分に言って聞かせる。確かに茎は低い方のエレメントである水に深く差してある。でも花は死んだようにうなだれて、壺のふちの上にぐったりと曲がっている。

 傍らにひざまずき嘆く。「花よ、あなたも行ってしまったの? ――僕は完全に独りぼっちなの?」

 壺から、ものうげにうなだれた花を取り、服の中の胸の部分にしまう。そして今は完全な悲しみとともに寝床にふたたび倒れ込み、目を閉じて視界を真っ暗にし、幻を見ないように努める。

 でもどうやって? 内なる目からビジョンを隠す方法を誰が知っていよう。内なる目はどんな闇にも見えなくされない視力をもつ恐ろしい賜物なのだ。何をどうやっても見えなくすることはできない。

 長く静かな眠りから目覚めた時、もう夜が地上に降り立っていた。外には月が光り、その銀白色の光の筋が高窓を通って部屋の中へ差し込んでいる。室内の光の筋が白い衣の裾を照らす。金色で刺繍された裾を。見知った刺繍だ――私はゆっくりと視線を上げる。きっとそこにアグマハドがいるのだろう。果たしてそこに彼はいた。彼はちょうどほの暗い影の中に立っている。だが顔は見えなくてもその姿は他の人と容易に間違わない。

 まったく動かないで横たわっている。それなのに彼には私が目覚めたことがすぐにわかったらしい。

 「立つがよい」と彼は言い、それに従う。寝床の横に下り立ち、怖さのあまり大きく見開いた目で彼を見据える。

 「それを飲みなさい」と彼。横を見ると赤い液体がなみなみとつがれたカップが置いてある。それを私は飲む。やみくもに、この飲み物が今夜の沈黙の時間に私にもたらされる運命であるどんな試練にも耐える強さをくれることを願いながら。「来なさい」とアグマハドは言い、後について扉へと向かう。外の新鮮な空気と自由にこの先ありつけるかな、と思い半分無意識に窓を見上げる。突然、目を見えなくされたようだ。急いで目に手を当てる。柔らかい布を巻かれ目隠しされている。驚きと恐怖で黙り込む。体を支えられ、慎重に前へ導かれているのを感じる。支える手がアグマハドのものに違いないと思い震えてしまうが、抵抗するには無力であり、おとなしく触れられるままにしている。

 ゆっくりと一同は前へ進む。私の部屋を出て左へ行ったり右へ行ったりしながら相当の距離をやって来た。だがどのくらい、どちらの方向へ来たのか推測できない。目隠しされた状態で当惑したままだ。

 一行はまったくの沈黙の中、立ち止まる。周りから私を支える腕は取り払われ、目隠しが外されるのがわかる。そこに見えるのはまったくの暗闇なので、まだ目隠しの布が巻いたままなのか確かめるため、手で顔をさわる。ない。――目隠しは取り除かれた――目は開いている――でも、ただ深く完全な闇のうつろな壁を見つめるだけである。頭痛とめまいでフラフラする。さっき飲んだあの濃い飲み物の匂いが頭を混乱させているようだ。じっとしたまま、意識がもとにもどり自分の居場所がわかるよう願う。

 そうして待つ間、不意にそばに寄り添う別の存在がいるのに気がつく。私は避けはしない。その存在の美しさと輝かしいようすを知っているような気がしたのだ。その見知らぬ存在を魂が好む言葉にならない感じ、あこがれに心がはずむ。

 沈黙のただ中、ふいに快い低い声が耳のすぐ近くに聞こえてくる。

 「アグマハドに言うがよい、規則にそむいていると。祭司は一人だけが至聖所に入ってよい。それ以上はもう入ってはならぬ」

 その水の流れるような声は睡蓮の女神のものだと私は思う。そこに祭司がいるのかどうかも知らないが、迷わず女神の言う通りにする。

 「祭司は一人だけが至聖所に入ってよい」私は続けて言う、「それ以上はもう入ってはならぬ。そしてここにいるアグマハドは規則にそむいている」

 重々しい口調でアグマハドが返事する。「女神のお言葉を私がぜひお聞きしたいです」

 「彼に言うがよい」女神の声は私の魂を恐怖でゾクッとさせ、体が震える。「彼の前にわが姿を現すことができるならば、ここで待っていたりはしなかった、と」

 女神の言葉をそのまま伝える。アグマハドの返事はなく、動く音がする。――足音だ――そして扉がそっと閉まった。その時、柔らかい手が私に触れ、それと同時にかすかな光を胸に感じる。すぐにその手は、先ほど胸に隠した蓮の花のような気がして、服の中からしおれた花を引き出そうと手を入れる。でもすぐにその無用な試みはやめた。目を魅了する光に顔を上げると、そこに睡蓮の女神が立っている。私の幼い心で女神を呼び始めると、かすかな霧に包まれたような、ぼんやりとしたその方の姿を見る。だがそこにいることを喜ぶほどはっきりとは見えない。彼女が胸のあたりでしおれた花を手に持っているのが見える。それは私から取ったのだ。さらに驚いた。花はもっとしおれ、くすんで、完全に枯れているのだ。しかし残念ではない。花が枯れてゆくにつれ、女神はより輝かしく、目にはっきり見えるようになってきたからだ。花が完全に枯れ果てた時、彼女は私のとなりに立つ。自らの光に照らされて、はっきり見える明瞭な姿で。

 「もう恐れなくてよいのですよ。あの者たちはあなたに危害を加えられません。あなたは私の領域の中にいるのだから。たとえ彼らがあなたを偽りと悪の牢屋に入れようとも、恐れなさるな。そしてすべてのことを観察し、見るものすべてを憶えておきなさいね」と女神は言う。

 闇は彼女の自信に満ちた優雅な言葉で照らされ、明るくなっている。私は勇気が出て、力に満たされる。

 彼女は手を伸ばして私に優しく触れる。すると私は輝きに満たされる。これまで経験したどんな光輝よりも温かい輝きだ。

 「エジプトのすばらしい花、睡蓮は聖なる水に住んでいます。その水は清らかで静寂な中に、ちょうどよく永遠の休息所を作り出しています。私は花の聖霊です。真理の水に生かされています。そして我が命は天界の息すなわち愛で作られているのです。でも私の愛の翼が今もなお卵を抱いているこの世の休息所は退廃し、叡智なる天界の光がそこから追い出されているのです。堂々たる睡蓮の聖霊は闇の中では長く生きられません。太陽が沈んでしまえば花はしおれ、死にます。私の言ったことを憶えておきなさい、我が子よ、心に刻みつけるのです。あなたの心がそれらを理解できるようになるにつれて、それらはあなたに多くのことを教えるでしょう」

 私は言う。「教えてください。僕がまた蓮のところへ行けるのはいつでしょうか? 明日、太陽の光の中に一緒に連れて行ってくれませんか? 今は夜だし、僕は疲れているので。あなたの足もとで眠ってもいいですか、そして明日になったら庭園へ連れて行ってくれますか?」

 「かわいそうな子」と彼女は言いながら私へ向かって身をかがめ、その息がかかる。彼女の息は野の花のように甘く香る。「あの者たちはどれだけあなたにむごいことを強いていることでしょう! この腕で休みなさい。あなたは私の透視能力者で、我が愛の国を啓蒙する人なのだから。強さと健やかさが宝石のようにあなたの表情に宿るように。見守ってあげましょう、お休み、我が子よ」

 言われるままに眠りにつく。冷たく堅い床(ゆか)の上なのに、頭部は柔らかい腕に落ち着き、深く、夢のない、乱されぬ眠りに落ちる。

 

 *     *     *

 

 アグマハドの所有する書物の一つに秘密の記録がある。その晩はつぎのように一言だけ記された――「失敗」。

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5章

 連れて来られたのは、祭司たちが朝食をとっている大広間だった。今はもうそこにはほとんど人がいない。しかしアグマハドとカーメンは窓のそばで、ひそひそ声で話し続けている。その間、二人の修道士が私をテーブルへ案内し、油たっぷりのケーキと果物とミルクを運んで来る。この何も口をきかない若い修道士たちが私に給仕するのは奇妙なことに思える。神殿の並々ならぬ秘儀に関し、彼らは私より経験を積んでいるだろうから、尊敬の念すら持てるからだ。ケーキを食べながらあれこれ考える。なぜ彼らは私と口をきかないのだろう。これまでに会った見習いたちもみんなそうだ。でもこれまで神殿で過ごした時間を一瞬ざっと振り返ってみると、私は一人きりにされたことは一度もなく、誰か一人は一緒だったことを思い出す。今もアグマハドとカーメンが部屋にとどまっているため、私に給仕しているこの若者たちの顔に恐怖の沈黙が見て取れる。その恐怖はよくある、教師が目を光らせている時のような恐ろしさではなく、ある魔力のような視力の見手が、だまされまいと見張っている時のような恐怖であると私は想像する。二人の若者はどちらの顔にも表情と言えるものが見られない。彼らはロボットのように振る舞う。

 再びものすごく疲れた体も、食べ物のおかげで元気が出た。食事が終わると立ち上がって高窓からセボウアが庭園にいないか見ようとする。ところがアグマハドが歩いて来て窓と私の間に割って入る。そして感情のない目つきでじっと私を見つめる。その目つきのせいで彼を心底、恐くなる。

  「来なさい」と彼は言う。そして向こうへ歩き出す。うつむき、ついて行く。私の新たなエネルギーと希望はすべてなくなってしまった。なぜ? わからない。なぜ私は白い衣の刺繍をほどこされたすそを見つめているのかわからない。――そのすそは私の前で、地の上をなめらかにすべるように進んで行く。死の運命に向かってついて行くような気持ちがする。

 我が死の運命! アグマハドはこの神殿を代表する祭司で、大祭司たちの中で真の統率者だ。我が死の運命。

 廊下を通り、大きい回廊に出る。神殿の門から至聖所へと至る通路だ。それを見て恐怖でいっぱいになる。出入口から日光が差し込んで、言葉では言いようのない影を嘲っているにもかかわらずである。アグマハドに対する恐怖は根深く、このように二人だけにされていても、完全な服従と沈黙のうちに従っている。回廊を行く――不承不承の重い足取り一歩一歩があの恐ろしい扉――夜の闇の中に忌まわしい姿が現れる、あの扉の近くに私を引き寄せる。ある種の恐怖のあまり壁を見つめる。苦しむ魂が霊的な尋問を受ける際の恐ろしい道具をじっと見つめるように。ひとたび目を開けて身に迫っている破滅の運命のようなものを見たならば、目がくぎ付けになって、さらにその対象物を見続けるしかない。そのように私も盲目的な恐怖を長い廊下の壁に投げかけているのだ。想像の中で廊下を進むにつれ壁が間近に接近し、今まで生きていた明るく美しい世界のすべてから私たちを遮るように思えてくる。

 夢中ですべすべした恐ろしい壁を見つめながら、次のことに気づく。こうして近づきつつあるのは、至聖所の扉に直角に位置している小さな扉である。その扉は人目につかないが異常なくらい張りつめた雰囲気がある。廊下の向こうの端はとても深い闇で、その反対側が太陽の光で輝いていることで際立って対照的なせいだろう。

 その扉に近づく。今言ったように、それは至聖所の壁と直角に位置している。至聖所の扉に近いが、廊下の壁にある扉である。

 一歩一歩が私自身の意志と無関係に進んでいるような感じがする。確かに意志は私に太陽の光を思い出させようとしたはずだ。世界を花々で美しくする太陽の光――、人生をぞっとするような、想像できない夢ではなく、輝かしい現実にする太陽の光を!

 しかしそれは――その扉は――そこにあった。そしてアグマハドが立ち、それへ手をかけている。彼は振り返る。

 「心配するな」静かな落ち着いた声で言う。「至聖所は我々の居場所の中心で、その付近は我々を強さで満たすに十分なのだ」

 同じ経験をしたことがあった。庭園で初めてアグマハドが、同じように励ましてくれた時だ。苦労して視線を上げる。彼を見れば、その声のみごとな落ち着きの中に本当の励ましがあるかどうかわかるかもしれないからだ。果たしてそこには耐えがたいほど冷静な青い目があるだけだった。冷酷で感情のない青い目。その瞬間その目の中に、完全に餌食を前にした獣の残酷さを見る。

 彼は扉へと向き直り、それを開く。そして中へ入って扉を押さえ、私を通す。――そう、後ずさりするかと見えた私の足取りを、深みへと引きずり込んだ。

 中に入ると部屋の天井は低く、壁の高いところにある大きな窓が中を明るくしている。窓にはカーテンがあり、豪華な生地のひだが垂れ下がっている。部屋の片隅に背の低い長椅子の寝台が置かれている。それを一目見て、なぜかギョッとする。すぐにゆうべ私はその寝台で眠ったに違いないと思う。部屋は豪華に飾られており、美しいものがたくさんあったにもかかわらず、寝台の他は何も目に入らない。縮みあがる心でただ不思議に思う。なぜこの寝台は私が眠ったあの部屋から運んで来られたのだろう。

 憶測にふけりながら、突如、静かなことに気づく。完全な静けさ、そして孤独。

 急に不安になって振り返る。

 まさに! 私は一人きりだ。彼は去ってしまった――恐怖の祭司、アグマハドは――私をこの部屋に残し、何も言わずに行ってしまった。

 これはどういうことだろう? 扉を開けようとする。固く閉じられ、閂がかかっている。

 とらわれの身となった。これはどういうことだろう。がっしりした石の壁を見回す――高い窓を見上げる――近くにあるはずの至聖所を思う――寝台に身を投げ出し、顔を覆う。

 何時間もそこで横たわっていたに違いない。あえて起き上がらず、騒いだりもしなかった。アグマハド祭司の青い冷酷な目のほかに訴える相手もいないのだ。しっかり目を閉じて寝床に横たわり、思い切ってこの牢獄のようすを見ようともせず、決して夜が来ないようにと祈っている。

 まだ一日が始まったところだ。セボウアと庭園にどれくらい長くいたかわからないけれど、そう確信していた。日は高く、窓から光が差し込んでいる。長い時間がたった後、チラッと光るものを見る。部屋を見回す。誰かが中にいるのだろうか。でもカーテンの後ろに隠れているのでなければ、そこには何もない。

 独りぼっちだ。勇気を奮い起こして太陽の光を見上げる。窓から差し込み、物を輝くばかりに美しく見せる太陽の光を。それはまだ本当に存在しているのだ、とわかり始める。このところのひどい経験にもかかわらず、私は太陽の光を愛する少年にほかならないのだ。

 高窓によじ登って見たいという魅力は強くなり、ついに燃え上がる。そうしたいという衝動に駆られると、まだ少年の私はがむしゃらな目的と、むやみな探求心が押し殺せなくなった。とにかく周囲にあるすべての恐怖をすっかり忘れて、子供っぽいその目的に夢中になり寝床から起き上がる。壁はつるつるして登れなそうだ。思うに、窓の下にあるテーブルに立てば窓枠に手が届き、そこで身を持ち上げれば外が見えるのではあるまいか。すぐにテーブルをよじ登る。しかし上へ伸ばした両手が、わずかに窓枠に届くだけだ。少し飛び上がってどうにか窓枠につかまり、身を引き上げる。この冒険心は少しは満たされた。外を見ることに成功したからだ。

 だが見たものはたいしたものではなく、楽しい心は冷静に戻った。

 そこに庭園はなかった。窓は小さな土地の一角に面しており、そこは高くて黒い壁に囲まれている。すぐにその壁はどうやら神殿のもので、外部の壁ではないらしいことに気づく。その土地の一角は大きな建物のちょうど中心部に囲まれている。円柱と屋根が左右から向こう側へとそびえ立ち、壁には装飾がないのが見える。私の見ているこの窓が唯一、その構図を見てとれる窓である。

 ちょうどその時、部屋の中でかすかな音がした。私は急いでテーブルの上に降り立ち、びくっと振り向く。音はまだ聞こえる。窓の一つを半ば覆っている分厚いカーテンの向こうから、聞こえてくる。その場で息を殺し、この白昼のきらめく太陽の光の中でさえ、何に出会うかいくぶん恐いのだった。私が入って来た扉以外に、部屋に入る方法があるとは思えない。だからあえてそこに健全な人間がいることを願っても望み薄であろう!

 恐怖はすぐに消えた。カーテンが少し後ろに引かれ、黒い服の修道士――今まで見たことのない――がそうっと忍び込んで来る。その人目を忍ぶ態度を不思議に思うが、恐怖感はない。彼は手に、堂々たる白い睡蓮の輝かしい花を握っているからだ。私はテーブルから飛び降りて彼のそばまで寄って行く。目は花に釘づけだ。十分に接近したところで、彼は低い声で急いでこう言う。

 「これはセボウアからです。大事に世話してください。ただし、祭司には誰にも見られないように。大事に育ててください。助けが必要な時に助けてくれるでしょう。セボウアはあなたさまに言った言葉をすべて忘れないように、と忠告しています。そして何よりも、本当に美しいがゆえに愛するものと、自然な好き嫌いの心を、信頼するように、と。以上が伝言です」そう言いながらカーテンへ後ずさりして行く。「セボウアのために命を賭けてここへ来ました。この扉のそばに決して来ないよう、そしてこの扉があると知っているのを悟られないよう、お気を付けください。そこは大祭司アグマハドの私室に出入りできるのです。あえてそんなことをして重い罰を受ける危険を冒す人はいませんが」

 「どうやってここへ来られたの?」大きい好奇心から私はそう尋ねる。

 「あの方々は朝の儀式の最中です――祭司全員が、です――だから私は見つからずにここへ来られたんです」

急いで扉をすり抜けて行こうとしている彼に抱きついて泣き叫ぶ。「教えて、どうしてセボウアは来なかったの?」

 「セボウアは来られないんです。厳しく監視されているんですよ。あなたさまに近づこうとしないように」

 「どうして?」私は驚き、失望して聞く。

 「わかりません」修道士は私が服を握っているので引き抜きながら言う。「今言ったことを憶えておいてください」

 そしてあわてて扉から出て、背後に閉めて行く。気がつくと私に厚いカーテンが半ばかぶさっている。突然彼が来て去ったことのショックから立ち直ると、すぐにカーテンを払いのけて離れ、睡蓮を手に取る。

 憶えておくよう言われた言葉をじっくり考えるよりも前に、最初に思ったのは、このかけがえのない花を安全な場所に置くことだった。まるで愛する人の生きた姿であるかのように、いとしげに持つ。どこかに気づかれずにこの花を隠しておく場所はないかしら、と辺りを見回す。

 急ぎ探していると、寝台の頭の部分、カーテンが下がっている所から少し離れた所に隠し場所を見つける。ここなら少なくとも、当面は隠しておけそうだ。呼吸する余地もあるし、カーテンが動かされない限り見つかることもないだろう――それに他のどこよりも見つかる可能性が少なそうだ。儀式が終わってアグマハドが入って来るといけないから、あわててそこへ置く。花を隠すと次に水を入れる容器を探す。そうしなければこの花は、心から愛する水という元素を与えられず、私の友として生き長らえることができないだろう。

 陶製の壺を見つけ、そこに水を入れ花を活ける。そうしながらも、祭司たちがこの壺のないことに気がつき、私を問いただしたらどうしようかと思う。そのような非常事態にはどうしたらいいかわからないが、もし花が見つかってしまったら、ただ何らかのインスピレーションが湧いてセボウアに責任が及ぶのを避けられるよう望むだけだ。詳しいことはわからないが、セボウアは私に関連することでとがめられていることは明白なのだ。

 寝床へ行って最愛の花のそばに腰かける。その花を太陽の光のもとに置き、美しさに耽ることを私がどれほど望んでいることか!

 こうして一日が過ぎた。その後は誰もここへ来なかった。太陽が窓から去って行く。夕暮れの闇が窓に訪れる。今もなお一人きりだ。これ以上、怖い思いがつのるとは思えない。この夜が恐怖の苦しみをもたらすとは考えられない。私は深い静けさに満たされている。その静けさは昼間の長い、邪魔されぬ時間が生み出したか、あるいは美しいが隠されて見えない花によって作り出されたか、どちらかであろう。かつてこの目にこれほど輝かしく繊細な美しさは見たことがない。前の晩に追い払えなかったあの耐えがたい幻影は今はない。

廊下に通じている扉が開いたのは、すっかり暗くなってからだ。アグマハドが入って来る。後に若い祭司が一人、食べ物と奇妙な匂いのする飲み物を持って入って来る。寝床から動かないでいたため、食べ物に飢えてはいない。それまで食べ物のことを思い浮かべもしなかったが、確かに何も食べず目が回りそうだ。私は飲食欲に満ち満ちて起き上がる。若い祭司が食事を運んで来て脇へ置くと、まず飲み物を飲む――それは実際、最初にそこへ置かれた――それで私の疲労は急に癒される。

 飲んでいる間、アグマハドは私を見ている。カップを置くと私は新たな反抗心で彼を見上げる。

 「これ以上この部屋に独りきりにされたら、発狂してしまうよ」と勇気を出してはっきり言う。「これまで人生で、こんなに長く放っておかれたことは一度もないもん」

衝動的にそう言った。一人きりで長い時間を過ごしていた時、それほど恐ろしくはなかった。だが今、急にこのたまらない孤独が不安になり、はっきりと気持ちを言ったのだ。

 アグマハドは若い祭司に言う――

 「食べ物をそこに置いて、本を取って来なさい。私の部屋の寝台に置いてある本だ」

若い祭司は使い走りに出て行き、アグマハドは黙っている。そして私は――言うだけ言ってしまうともう言葉もなく、次はこれを食べてしまわねば、と――皿から油たっぷりのケーキを取り上げ、いそいそと食べる。

 その五年後には、このようにアグマハドに立ち向かうことはできないであろう。このように出された食事を全部食べてしまうこともできないであろう。しかし今はこの上ない無知と若さゆえの無頓着のため大喜びで食べている。その時は祭司の理解力を測るものさしを持っていなかった。――彼の厳しい冷酷さを受け入れるだけだ。他にどうすることができよう? 私はまだ無知なのだから。その上、彼の冷酷なやり方――冷酷であることの目的に関する手がかりはなかった。私は完全な闇の中にいる。だがこれからも今までと同じようであるとすれば、神殿での生活は期待していたものと違うということがよくわかった。そしてすでに心の中で、こんな不幸なやり方の中で生きていくことになっているなら、あの恐ろしい廊下を通ってでも脱走しようという子供っぽい考えを抱いている。後から思うと私がどれだけよく監視されているか、その時はほとんど知らないのだった。

 私が食べたり飲んだりしている間、アグマハドは何も言わない。やがて若い祭司が戻って来て扉を開け、中に入って来る。手に大きな黒い本を持っている。彼はそれをテーブルの上に置き、アグマハドに言われてテーブルごと寝床の近くへ引っ張って来る。それから部屋の隅のランプを持って来てテーブルの上に置く。彼が明かりをつける。それが済むとアグマハドは言う。

 「孤独を感じるにはおよばぬ。この本のページを開いて読むとよい」

 そう言いながらアグマハドは部屋から出て行き、若い祭司がそれに続く。

 すぐにその本を開く。その時のことを後から振り返ると、私はたいていの少年と同じように、すごく知りたがりだったようだ。いずれにしても、何か新しいものがあればとりあえず釘付けになる。その本の黒い表紙を開き、最初のページをじっと見つめる。美しく彩色されたページだ。喜んで見ていると、少し白っぽい色の中から文字が見えてくる。文字は灰色の背景色から文字として輝くばかりの色にきわだち、まるで火のように見える。題名はこうだ――『魔術の力と技術』。

 それはいくぶん無学な少年の私にとって無意味な内容だ。アグマハドはこのような本を私に与えられるなら、一緒にいる仲間をくれればいいのに。

 むやみにページをめくってみる。何も理解できない。その本当の理由は、使われている言葉のほかに内容にもあった。こんな本を読むように私のところへ持って来るなんて、ばかげたことだ。読みながら大きなあくびをし、本を閉じて再び寝床へ横になろうとする。その時、私は独りではないことに気づき、驚く。本とランプのあるテーブルの反対側に、黒い服を着た男が一人、立っている。私を真剣に見ているが、見返すと少し後ろに後ずさるようだ。どうやってこんなにも静かに部屋へ入って来て、音もなく私のそばへ近寄れたのか、不思議だ。

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4章

 目が覚めて、体が冷たい露に覆われ手足が死んだように感じる。私はどうすることもできずに横たわっている。ここはどこだろう。

  辺りは静寂な暗闇で、せいぜい孤独な静けさだけが好ましい。すぐに心はきのうの日を一年のごとくにした出来事を回顧しはじめる。目に浮かぶ白い蓮の花のビジョンが強まるが、私のおびえる魂はもっと後の一番恐ろしい光景の記憶に舞い戻ろうとする――それはまさに、暗闇の中で目覚めているときの最後に記憶している部分だった。

  想像の中で再びそれを見る。感情が高揚したその顔を――現実とも思われぬ恐ろしさ、冷たく睨む残忍な目を。思い出して取り乱し、おびえて疲れ果てる――そして今度は想像であの姿を見ているにもかかわらず、また恐ろしさのあまり大声で叫ぶ。

  すぐに部屋の入口から光が近づいて来て、銀のランプを持った一人の祭司が入って来る。

  そのランプの光によって、これまで入ったことのなかった部屋にいるのがわかる。部屋は心地良く安らげる場所だった。柔らかく垂れ下がるカーテンが外を遮断し、空気は気持ち良い香りがする。

  祭司は近づきながらおじぎをする。

  「ご主人さま、何がご入り用ですか? のどが渇いたのでしたら新鮮な水をお持ちしますが」と彼は言う。

  「のどは渇いてない。怖いの…恐ろしいものを見たから」と私。

  彼が答える。「いいえ、若いから怖いのですよ。我らが全能の女神が見つめれば、人を気絶させるほどの威力なのです。恐れなさるな、あなたさまは光栄にも見えないものが見える目をお持ちだ。何か必要なら持って来ましょうか?」

  「今は夜?」柔らかい寝台へ向き直りながら落ち着かずにそう聞く。

  「もう夜明け近くです」と祭司。「おお、朝が来ます!」

  思わず言う。「ありがたい太陽が僕の目から怖いものを隠してくれたらいいのに! 闇が怖いよ、恐ろしい顔をしているんだもの!」

  「私がベッドのそばにいましょう」祭司は静かにそう言う。銀のランプをランプ立てに置き私のそばに座る。彼の顔は一瞬、ここへ来る前の無価値な彫像のそれに戻ったように見える。目は冷たい。話すことには親切な言葉がいっぱいだが、その中に心の温かさがない。彼から離れる。二人の間に細長いへだたりがビジョンとして見えたからだ。しばらくの間、彼がそばにいることに安らぎを見出そうとしてみるが退屈する。そして彼を怒らせるのを怖れ今まで素直に静かにしてきたが、ついにそのことも忘れ、言葉を発する。

  「ああ、がまんできないよ! ここから出て行かせて、外へ行かせて……庭園へ……どこでもいいから! どこもかしこもあのビジョンでいっぱいなんだ。どこにもあれが見えるよ、目を閉じてもだめだよ! ああ僕を……どこかに行かせて!」

  「そのビジョンに逆らわないことです」と祭司は答える。「それは至聖所からあなたさまの所へ来るのです―― 一番神聖な祭壇からです。あなたさまは他の人とは違う方としてお目をかけられたのです。我々の中であなたさまだけが未来に栄誉を授けられ、聴力を与えられるであろうお方なのです。ですから心の中の反抗心を抑えねばなりません」

  私は黙っている。言われたことが冷たいつららのように魂に突き刺さる。その意味がわからない……そうだ、わかるのは不可能なのだ、しかしその言われたことの冷たさに敏感に気づいたのだった。しばらくの間、懸命にその思いを心から遠ざけようとし、恐怖から解放される。するとなぐさめの感覚をともなう快い思い出が心をとらえる。

  「きのう庭園にいたあの色の黒い人はどこ?」

  「何ですって? ああ、庭師のセボウアですね。部屋で眠っていることでしょう。夜明けに彼は起きて庭園へ出るんです」

  「彼と一緒に行ってはだめ?」不安におののきながら、断られるのではないかと心配のあまり両手を組み合わせ祈るしぐさでそう聞く。

  「庭園ですか。不安で落ち着かないのでしたら庭園へ出れば、朝露と咲いたばかりの花に囲まれて興奮した心もなごむでしょう。夜明けに会ったらあなたさまのところへセボウアを連れて来て案内させましょう」

  願いがたやすく認められ、深い安堵のため息をつく。祭司から向きを変え、目を閉じ静かに横たわり、喜びの思いによってあらゆる怖ろしい光景と想像を遠ざけようとする。喜びの思いはすぐに私のものとなった。間もなくこの閉ざされて不自然に芳香のたちこめた部屋を出て、外の空気を自由に吸い込めるのだ。

  何も言わずに辛抱強く待つ。祭司はそばでじっと動かない。うんざりと待ちくたびれた後、ようやく祭司は起き、銀のランプの火を消す。すると高い窓からぼんやりとした薄明かりが部屋に入るのがわかる。

  彼はこちらを向いて言う。「セボウアを呼びに行って、ここに来させます。覚えておいて下さい、ここがあなたさまの部屋で、これからはずっとそうです。朝の儀式が始まる前に戻って来て下さい。修道士があなたさまの聖別式のために入浴と油の準備をして待っていますから」

  とても重要な人になった奇妙な運命、という考えが浮かび、ぞっとしながら尋ねる。「ここに戻って来る時間は、どうしたらわかるの?」

  「朝食後までは戻らないで大丈夫です。鐘が鳴って知らせてくれるでしょう。それからのことはセボウアが教えるでしょう」そう言って彼は立ち去る。

  異常なほど疲れたこの体を新鮮な空気が回復させてくれると思うと、喜びが湧いてくる。そしてセボウアの変とも言える顔つきと、時折その醜さを覆い隠す、すてきな笑顔が見たくてたまらない。母と別れて以来、セボウアの顔が私の見た中で唯一の人間の顔のように思われる。

  いつでもセボウアと一緒に行けるよう、まだリネンの衣を着ているかどうか確かめる。よし、私はその純白の服を着ている。誇らしく感じる。これほど見事に織られた生地の服は今まで着たことがない。またセボウアと会えることになって、安らぎの中にかなり癒された私は、横たわってぼんやり自分の服を見る。私がこの上質で繊細なリネンの服を着ているのを見たら、母はどう思うかな、と想像してみる。

  ほどなく足音が聞こえ、夢見の状態から覚醒する。セボウアの変な顔が戸口のところに現れ、その黒い姿が私に向かって進んで来る。彼は醜い――そう、粗野だ。――そう、色が黒く、外見に白いところがみじんもない。しかし彼が部屋に入って来て私を見、憶えていたあの微笑みがまた、その顔を輝かせたのだ。彼は人間だ! ――愛情のある人間だ!

  思わず両手を差し出しながら起き上がる。

  「セボウアァァァ!」ばかげているがまだ少年の私の目に涙がこみ上げる。彼の顔に優しさを見たからだ。「セボウア、どうして僕はここにいるの? なぜ僕は他の人たちとは違うの? 教えてセボウア、またあの恐ろしい姿を見るのかなぁ?」

  セボウアはそばへ来てひざまずく。この色黒の人が畏敬の念に圧倒されひざまずくのは、自然なことのようだ。

  「あっしの息子よ、おまえさんは天から開かれた目を賜わったんだ。天からの賜物を持って勇気を出せ、そして我々の悲しいこの世を覆う闇のさなかに、光となるんだ」と彼は言う。

  「そんなの、なりたくないよ」怒ってそう言う。セボウアが恐くなかったので、反抗心が表出したにちがいない。「人が変わっていると思うことは何もしたくないよ。どうしてあのぞっとする顔が、たった今も目の前に見えて、現実を覆い隠してしまうの?」

  「一緒に行こう」質問に答えるかわりにセボウアは立ち上がりながらそう言い、私に手を差し出す。「おいで、花々の中へ行こう。新鮮な空気がおまえさんの頭を冷やしてくれる所で、その話をしよう」

  立ち上がる。そのことに異存はない。手をつないで廊下を抜け、庭園に出られる扉のところまでやって来る。

  朝の空気を吸い込むうきうきした気分はとても言い表せない。それは自然界にある何よりも、はるかに大きく強い歓喜を私にもたらすのだった。これまで置かれていた、隔離され香のたちこめる、以前とは全く異なる環境から出て行くことだけでなく、神殿の扉の外に美しい自然そのものの世界は依然としてあるのだと感じることで、怖ろしさに異常に興奮した心は大いに癒え、私は元気を取り戻す。

  私の顔をのぞき込みながらセボウアは、漠然とした思いに敏感に気づいて同情したようだ。

  彼は言う。「それでも太陽はあらゆる荘厳さをもって昇る。それでも花は太陽のあいさつに心を開く。おまえさんの心を開き、満ち足りるんだ」

  私は返事をしない。若くて教育も受けていないのだ。すぐに言葉で答えられないが、庭園を横切って行きながら彼の顔を見上げる私の目が、心を代弁しただろう。

  「息子よ、夜の闇の中にいるからといって、闇の裏側にはやはり光があるってことを、疑う理由はないよ。おまえさんは夜、横になって眠る時、怖くない。そして朝、太陽を見る。おまえさんは夜の闇よりもっと深い闇の中に入った。そして朝の太陽よりもっと輝いている光を見るだろう」とセボウアは言う。

  その意味がわからないが、心の中で思いめぐらす。私は何も言わないでいる。甘い空気、そして人間らしい同情心だけで十分なのだ。今や外の新鮮な空気の中におり、聞く言葉の意味や、私が体験したことの理解などはどうでもよいことと思われる。私はまだ幼い少年だし、精神力が回復した完全な喜びが他のことを忘れさせてしまうのだ。

  それは自然なことだ。自然界のものはすべて、私にはとても魅力にあふれている。けれども私がまた自然の中へと入って行き、そこへ戻ってきた喜びにひたり始めるとすぐ、突然に、そして気づかぬうちにそれに魅せられてしまっている。

  どうなってしまうのか? ああ、わからない。自然界と呼ばれる領域の外にある現実のものは、この世の言語で適切に言い表せない。

  確かに私は自分の足で緑の草の上に立っている。――確かにこの立っている場所から、どこかへ行ってしまいはしなかった。セボウアは間違いなくそばにいるだろうか? 彼の手を握る。よし、ここにいる。けれども私は感覚により知っている。自然界は私に身を明け渡し、私は再び印象(フィーリング)の世界――視覚の――、非常な畏怖の音の世界の中にいるということを。

  何も見えない……何も聞こえない……恐怖の中に立ち、嵐の前に木の葉がざわざわとそよぐように私も震える。何を見ようとしているのだろう。何が近づきつつあるのだろう!? 目の前を、雲を描くように横切ったあれは何だろう?

  目を閉じる。あえて見るまい。周りの薄暗い現実に直面する勇気がない。

  「あっしの息子よ、目をお開け。言っておくれ、女神がいらっしゃるのか?」

  目を開ける。夜の闇の中で私を恐怖に陥れたあの恐ろしい顔を見るのを極度に恐れながら。だが、ない……一瞬、何も見えない……ほっとしてため息をつく。いつでもあの感情の高まった顔が、怒りで歯をむき出しにして私の眼前に接近してくるのを見る覚悟をしていたのだから。でも次の瞬間、喜びで体がぞくぞくとする。セボウアは思いがけずも私を蓮池のほとりに連れて来ていたのだ。そしてあの時のように、長い金色の髪が半ば顔を隠している白い女神が、身をかがめて澄んだ流れから水を飲んでいるのを見る。

  「女神に言っておくれ!」とセボウアは叫ぶ。「あのお方がおまえさんの目の前にいるのが、おまえさんの顔でわかる。あのお方に言っておくれ! もうこの時代、女神は祭司たちに語られないんだ。――言っておくれ、本当に我々はあのお方の助けが必要だと!」

  セボウアは私の横で、きのうのようにひざまずく。その顔は熱意と輝きにあふれ、その目は祈りに満たされている。セボウアの目を見ているうちに私はぐったりとし、どうしてかわからないがあの金髪の女神が私を呼ぶように感じる。そして体はそのままなのに、セボウアに押されて女神のほうへ近寄ったようだ。意識の中で私は立ち上がり、蓮池へ近づいたと思われる。そこで私は池の縁によりかかって、水面を覆うように垂れる彼女の衣に触れる。彼女の顔を見上げる。だが、見えない。顔から放たれる光。太陽を見る時のようにしか見えない。それでも、彼女の手が私の頭に触れるのを感じ、彼女の発した言葉が心に忍び込んでくる。かろうじて自分が聞いていることに気づいている。

  彼女は言う。「開いた目を持つ子よ、あなたの魂は清く、そして困難な重荷を負っています。でも光に満ちあふれる私のそばにとどまりなさい。そうすればそなたの足でしっかりと立つ方法を教えましょう」

  「母なる女神よ、」と私は言う。「闇はどうでしょうか?」

  あえてもっと率直に聞きたいことを口に出せない。もしあの恐ろしい顔について言えば、それが怒って目の前に現れるかもしれないと思われるからだ。その言葉を口に出すと同時に、彼女の手からワクワクする感じが私をすり抜ける。女神から私へと降りてこようとしているのは率直に聞けないことへの怒りだろうと思ったが、私の意識に雨だれのように心地よくそっと声が伝わってくる。乾いた土地の住人が優しくうるおす雨を連想するのと同じ神聖な感じが、それから伝わる。

  「闇は恐れるべきものではありません。魂が光の中で強く成長するにつれて、追い返すべきものです。我が息子よ、神殿の至聖所の一番奥に闇があります。そこの崇拝者たちが光に耐えられないからです。あなたの世界の光はそこから締め出されました。霊の光にともされた光が、です。でも盲目の祭司たちは自分たちのうぬぼれを隠し、自ら闇に覆われることで慰められているのです。彼らは我が名を用いることで嘲っています。我が息子よ、彼らに言いなさい。あなたがたの女神は闇の領域に道など持っていないと。彼らに女神はいりません。導き手はなく、盲目的な欲望に導かれているのです。これはあなたに委ねられた最初のメッセージです。――彼らは災いを自ら招いたのでしょう?」

  この時、私はその場から肉体へと引き戻されたようである。彼女の衣のへりにしがみつくが、手に力が全く入らない。しがみつけなかったのと同時に、女神の存在も感じなくなったように思える。ただ、肉体のいらだつ耐えられない感じだけを自覚している。私は彼女から引き離され、どうしようもなくて目を閉じる。苦労して目を開くと、そこにはただ蓮池があり、水面に堂々と浮かぶ花――花々の女王である花――がたくさん咲いているのが見える。その花々の金色の芯には日の光が置かれ、私にはその中に金色の髪が見える。だが夢の縁から怒りの声が上がる。ゆっくり、落ち着いた話し方ではあるが。

  振り返って見ると、驚いたことにセボウアが二人の修道士に挟まれ立っている。セボウアは頭を垂れ、手は胸の前で十字に組んでいる。私の間近に大祭司のアグマハドとカーメンが立っている。アグマハドがセボウアに何か話している。すぐに私はセボウアが、私のために不興をかったのだと推測する。でも彼が何をしたのかわからない。

  アグマハドとカーメンは私の両側に陣取る。そして私は彼らの間で歩くことになっているのだと理解する。私たちは沈黙のうちに神殿へ向かって進む。そして再び神殿の薄暗い門をくぐる。

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3章

 寝台に横になる。疲れた手足にとても心地よい柔らかさだ。慣れない環境に置かれていたにもかかわらず、私はすぐに深い眠りに落ちた。完全な休息という束の間のぜいたくの中で、若さゆえの健康と信頼感があらゆる新しい境遇を忘れさせた。遠からず、同じ小部屋で寝台を見つめ、幼い無知ゆえの心の安らぎが消え去ってしまったことを不思議な感じに思うことになろうとは。

 起きると外は完全に真っ暗である。部屋の中にはっきりと人の気配を感じて飛び起き、座った姿勢になる。突然の目覚めに知力は消散し、今家におり、そばで黙ってこちらを見ているのは母だ、と思う。

 「お母さん」大きい声で言う。「どうしたの? なぜここにいるの? 具合悪い? 羊が迷子になったの?」

 しばらくの間返事がない。うつろな暗闇の中で気づく。ここは家ではない、新たな場所なのだ。……そしてこんなふうに部屋の中で黙ってこちらを見ているのは知らない人なのだ。初めて我が家の小さな自分の部屋が、母の声が、恋しくなる。そして勇ましい少年のつもりだったし、女々しい弱さにふけることなどないはずなのに、また横たわり大声で泣く。

 静かな声が言う。「明かりをここへ。目が覚めているようだ」

 物音がして、強い香気が鼻をつく。すぐにドアから二人の若い修道士が入って来る。手に手に銀のランプを持っており、部屋の中は急に明るい光が放たれる。それから見た光景は、泣くのもホームシックも忘れるほどびっくりするものだった――部屋が白い法衣を着た祭司たちで埋めつくされ、全員がじっと動かずに立っているのだ。私は本当に圧倒される。黙っている彫像のような人が大勢、目は下を向いたまま、手は胸の前で十字に交差させて、私を取り囲んでいる。再び寝床に身を投げ出し、手で顔をおおう。明かりが、そして取り巻く面々が私を圧倒するからだ。驚愕から我に返ってみると、心の思いが当惑をきわめ、またもや泣き出したい気持ちが強くなる。芳香は濃厚になり強烈に立ちこめ、部屋の中に焚いた香が満ちたようだ。目を開けると私の左右両脇に、香の入ったつぼを持つ若い祭司が立っている。今言ったように部屋は祭司たちでいっぱいだったが、寝台の周りに側近の者たちが寄り集まっている。それらの顔を、私は畏怖の念でじっと見る。そこにいたのはアグマハド、カーメン、その他だ。彼らは表情がなく動かないという奇妙な点が一致しており、その動かぬ表情に心が強く打ちのめされた。彼らの顔を順々に見て、再び震えながら目をおおう。まるで貫けない障壁によって囲われているかのように感じる。こうして私をとり巻いている人たちによって、石の壁よりももっと貫けない無限の何かに投獄させられてしまった。沈黙はついに破られ、アグマハドが言う。

 「子供よ、起きなさい。ついて来るのだ」

 実のところ、この見知らぬ無言の連中について行くよりも暗い自室に一人とどまっていたいが、素直に起きる。アグマハドが私に向けた、冷たくて見通せない青い目に直面すると、黙って従うよりほかにない。起きて気がついたが私が動いても同じ側近の者たちに取り囲まれたままだ。彼らは私の前後左右を歩き、他の祭司たちはその外側を整然と並んで移動する。長い廊下を通り、神殿の大きな扉に着く。扉は開け放たれている。その向こうの丸天井に星の光がかすかに見え、まるで昔からの友人に会えた気がして気分が清々とする。しかし星は一瞬にして消える。大扉のちょうど手前で立ち止まる。何人かの祭司が大扉を閉め、閂をかける。それから私たちは大きい中央の通路へ向かう。それは初めてここへ入って来た時に見た通路である。今や気がつく。その深いアーチ形の、まっすぐ行った突き当りにある神殿の並木道に面した扉は、どれだけ雄大で美しかろうと開かれることはない。このたった一つの大扉はどこに通じているのかしら、とぼんやり考える。

 小さな椅子が一つ運ばれて来て、廊下の真ん中に置かれる。その椅子に、向こうの突き当りの扉を向いて座るよう促される。黙って座る。不安だ――この奇妙な事柄は何を意味しているのだろう。上級の祭司たちが周りで立っている中で、なぜこんなふうに座らされるのだろう。どんな厳しい試練が待ち受けているのか。しかし元気を出そう、恐れないでいよう……と決心する。もう純白のリネンの法衣を着たではないか。実のところそれは金で刺繍されていなかった。あの若い祭司たちのもののように黒で縫い取られてもいなかった。それは純白だった。そしてそれは何らかの栄誉のしるしに違いない……と誇りに思う。そう思うことで衰えゆく勇気を奮い起そうとするのだった。

 しだいに焚く香が強くなり頭が混乱してくる。祭司たちのふんだんに撒き散らす香気に不慣れだからだ。

 突然――ひと言もなく、何の準備もなく――明かりが消され、もう一度暗闇の中で異様な沈黙の衆に取り囲まれている。

 必死で落ち着こうとする。どこにいるのか思い浮かべる。大勢の集団は私の後ろにいて、祭司たちは前方で左右に分かれていたのを思い出す。そして側近の者たちは私を取り囲んで他から隔てていたし、明かりが消された時、私はまっすぐの廊下で高いアーチのある出入り口のほうを向いていたのだった。

 恐れと惨めさが襲いかかる。何かが起こったら勇ましくなろう、と椅子の上で体を丸くする。だがその時までは、できるだけ目立たないようにしていよう。そばで動かずにじっと立っている祭司たちの平然とした顔をずっと確認してきた。後ろにいる大勢の完全な沈黙のせいで恐怖と畏怖が湧いて来る。もし椅子から立ち上がり廊下を移動することになったら、気づかれずに祭司たちの間から逃げられるだろうかと考え、しばらく不安になる。でもあえてそれを実行する気はない。そして香が不思議な飲み物の効き目と相まって、静けさとともに異常な眠気を催す。

 目が半分閉じ眠ってしまいそうになるが、廊下の突き当りの戸口の端あたりから細い光が差したのに気づき、急に好奇心を掻き立てられる。目を大きく見開く。まもなく扉がゆっくり、とてもゆっくり、開くのを見る。ついにドアは半分開き、そこからぼんやりとした光のようなものが辺りにみなぎる。しかし廊下の突き当りは相変わらず完全な闇の中で、私を取り囲む人たちの押し殺した息づかいが微かに聞こえるほかは、物音もせず人の気配もない。

 闇の中をひたすら注視して目が疲れたので、しばらく閉じる。再び目を開けると、ちょうど戸口の向こうに何かがいる。その輪郭は独特で、背後から差す光のせいで姿と顔はよく見えない。またもや理性とうらはらに、突然の恐怖が心を占める――肉体はぞっとして、私自身が大声で叫び出さぬようある種の物質的・肉体的力を使わなければならなくなる。この世のものとも思われぬ、すべるような動きでその姿がゆっくり私に向かって進んで来るので、耐えがたい恐怖感は刻一刻と大きくなる。今や近づいたその存在は、何やら黒い衣のようなものを着ていて、顔と姿がほとんど完全にベールで覆われている。はっきりとは見えない。戸口から差す光はかすかである。私のすぐ近くへスーッと寄って来たその人影、かすかな光のようなものを放ち、照らし出されたぼんやりと光る衣のひだをつかんでいる姿を見て、恐怖の苦しみに圧倒される。この光は照らしても何も見えない光だ。非常な骨折りで私はその怪しげな姿から、幻惑された視線をそらそうとし、振り返ってそばにいる祭司たちの姿を見たいと思う。だが彼らの姿は見えない――すべては完全に虚ろな闇。そのことが内に占めていた恐怖感をひとしきり放ち、大声で叫ぶ――苦痛と恐れの叫び。そして頭を垂れ手で覆う。

 アグマハドの声が聞こえてくる。「大丈夫だ、坊や」それは音楽みたいに乱れのない調子だ。

 少なくとも私の前に立っているベール姿の存在ほどには不慣れでなくぞっとしないこの声に助けられ、私は自分をコントロールしようと努力する。それはそこにいる――あまり近くはないが、私の魂をこの世のものとも思われぬ恐怖で満たすに十分な近さで。

 再びアグマハドの声がする、「言うがよい坊や、何をそれほどまでに恐れているのか?」

 あえてその言葉にそむきたくはないが舌が口蓋にはりついている。だがなぜか、驚くべきことだが、この前とは異なりたやすく話すことができた。

 「何がって? 戸口から差している光と、そこのベールを被った姿が見えないの? ねえ、それを追い払って! 怖いよう!」と叫ぶ。

 私のその言葉にどうやら興奮したらしく、直ちに全員の低くささやく声が湧き立つ。それから再びアグマハドの穏やかな声がする。

 「女神を歓迎します。我々は女神を崇拝します」

 黒いベール姿はうなずいて、さらに近づく。アグマハドは完全な沈黙の後に再び言う。

 「我らが女神よ、あなたの崇拝者たちの目をもっと開いてくださいませんか。そして以前のように指示を与えて下さいませんか」

 ベール姿は身をかがめ、地上に何かを書いたようだ。火の文字で書かれた言葉を私は見る。そして見るやいなや消えた。

  よろしい。しかしその子は独りで私と共に至聖所に入って来なければならぬ。

 それを私は見る。まさに体は恐怖で震える。この黒いベール姿の存在は得体の知れない怖ろしさがあり、この命令に従うくらいなら死んだほうがましだと思う。祭司たちは静かだ。きっとこの姿が見えないように火の文字も、彼らには見えないのだろう。すぐに思いを巡らす。祭司たちは見たこともないし信じられない出来事であるこのことが、実際見ずに信じないなら、命令を知らないままだろう。先刻のようにぞっとして、自分にそのような完全なる恐怖の苦しみをもたらすであろう命令の言葉を伝える気になるわけはない、と思う。

 私は黙ったままでいる。黒いベール姿は急に私の方を向き、見ているようだ。再びすぐに消える火の文字が書かれる。

  我が言葉を伝えよ

 だができない。恐怖で体が言うことを聞かない。舌がふくれて口の中をいっぱいにした感じがする。

 その姿は激しい怒りのしぐさを見せる。すばやく滑るように私に突進して来て、顔からベールを引き下ろす。

 その顔が見上げるように近づいて来たとたん、私は両眼が飛び出しそうになる。ぞっとするような醜さはないが、目は氷のように冷たい怒りがあふれている――燃えるような怒りではなく、凍りつくような怒りである。それは醜くはないが、これまで想像したこともなかった恐怖感と嫌悪感をおぼえる。身の毛のよだつような奇怪なその顔は怖ろしい。人間の肉と骨でできているようではあるが、人間の仮面をかぶったものという感じがする――骨と肉でできているが、生命のない骨と肉だ。少しの間に恐怖がぎっしり詰まっていた。それから甲高い悲鳴を上げて私は気を失う。その日……神殿に来て第一日目の、二回目の気絶だった。

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2章

 「何の用だな?」と、その人は門扉越しに私たちを見ながら不平そうに尋ねる。「あっしは今朝、果物を調理場へ届けて貯蔵させたところだ。それに今日はあんたがたにくれてやる花はもうないよ。今日これから摘む分はぜんぶ明日の祈祷用だからな」

 「果物も花もいらないよ」人を見下げるような口調を好むと見られる導き手は、そう言う。「新弟子をここに連れて来たんだ。それだけさ」

 そして門扉の錠を開けて私に行けとうながすと、背後で閉め、それ以上何も言わずに長い廊下を歩き去る。庭園から振り返って見ると、廊下はとても暗い。

 「ここへ新弟子だと! あっしがおまえさんに何を教えたらいいんだ? なあ、田舎から来た子よ」私は黙ってその見知らぬ人を眺める。何を教えるかなんて私に言えようか。

 「植物の生長の神秘を学びたいか? それとも罪と嘘が成長する神秘をか? おい、ぼっちゃんよ、そんなにあっしを見るな。今言ったことをよーく考えるんだぞ、そうすりゃそのうちにわかるからな。さあ、ついておいで。怖がりなさんな」

 その人は私の手を取ると長い葉の植物の下をくぐって水音のする方へ連れて行く。何と耳に快い、優しく明るい音楽のリズムだろう!

 その人は言う。「ここは白い蓮の女神のお住まいだ。座ってその美しさを眺めていな。おまえさんが手伝えないことをあっしはやって来るんでね」

 私は喜んで腰を下ろし、深々とした緑の草の上で、ただ見る――驚きを、不思議を、畏敬を!

 優美な音のするその水は、花の女神を養うためだけにある。心の中で私は言う、御身はまことに考えられ限りのすべての花の女王です……睡蓮よ。

 若さの熱狂の中で夢を見るかのように、柔らかくて金をちりばめた芯を持つ、清らかさとロマンチックな愛の真のしるしであるこの白い花を見るにつれて、花は形を変え大きくなり、こちらへ伸びて来るかのように見える。そしてほら、女神がいる……色白で、金をちりばめたような髪の女神が身をかがめて、すがすがしい滴を唇に受け、美音をかなでる流れで水を飲んでいるのを。私は驚き、彼女を見、懸命にそっちへ行こうとするが、その前に意識が遠くなり、たぶん気を失ったに違いない。何とまあ次に意識が戻った時、私は草の上に横たわっており、顔にひんやりとした水の触感がある。目を開けると、黒い法衣を着た変な顔の庭師がのぞき込んでいる。

 「暑すぎたか?」困った顔で彼は尋ねる。「暑くて気を失うなんて、丈夫な子だな。この涼しい場所にもうちょっといな」

 「あの人はどこ?」ひじで起き上がって睡蓮の池を見ようとしながら、やっとのことでそう返事をする。

 「なんだって」顔つきをガラッと変えて庭師はそう叫び、温和そうに見えた外観が、その印象を裏切っておのずと見苦しい醜さを表す。「あのお方を見たんか?――いや、早まって考えすぎだな。ぼっちゃんや、何を見たんだ? 遠慮しないで言ってごらん」

 優しいその言葉に、驚いて散漫になった心が落ち着く。彼に見たことを話し、あの美しいお方がまた小川にかがんで渇きをいやしてないかと大いに期待しながら、また睡蓮の池のほうを見る。

 話すにつれて、奇妙な我が先生の様子はしだいに変わる。自分と同じような浅黒い肌の人間しか見たことがなかった少年の熱っぽさでその美しいお方を説明し終える時、ふと庭師が膝を隣りに並べて座っているのに気が付く。

 「おまえさん、女神を見たんだ!」ひどく興奮した声で庭師は言う。「万歳! おまえさんはあっしらの師匠となる運命の人だよ――人々の助けとなる人だよ――透視能力者だ!」

 彼のその言葉に当惑し、私はただ黙って彼を見る。一瞬の後、怖くなる。彼は気が狂っているに違いないと思い始める。彼のもとから逃げ出して神殿へ戻れるかしら、と思いながら周りを見回す。しかし、思い切ってそうしようかどうか思い巡らしたちょうどその時、彼は立ち上がりこちらへ向き直り、一回だけ優しく微笑み、強烈に目立つ醜い顔立ちをその微笑みで覆い隠す。

 「ついておいで」と彼は言う。立ち上がり、ついて行く。庭園の中を進んで行くと、そこはとても魅力にあふれていて、あちこちをキョロキョロ見回しながら彼の後ろをゆっくり歩いて行く。おや、こんなにも匂い立つ花が……。こんなにもさまざまな濃い紫色の花、中心が深い紅色の花が……。美しい花々の甘美な香りを胸に深く吸い込むために、立ち止まらずにはいられない。つい今しがた、白い蓮の花のこの上ない繊細な美しさに愛慕の情を感じたばかりなのに、今はもうこのさまざまの花を甘美に思っている。

 神殿の門へと向かう。庭園に来た時のとは別の門だ。そこへ近づくにつれて、金色のひげのアグマハド祭司が着ていたような白いリネンの法衣をまとった祭司が二人、門から出て来る。二人とも色が浅黒い。彼らはアグマハドに似た威厳と落ち着きを持って進んで来る。どちらも確かに地面にしっかり根を張った木のようだったが、何かが欠けているように思える。その何かはアグマハドが持っていた、ある種の自信と落ち着きである。彼らがアグマハドより若いのはすぐわかった。たぶんそこが違うのだろう。黒く日焼けした我が先生は、その二人に何か話すために向こうに呼び寄せ、残された私は高いアーチのある出入口の心地良い日陰に立っている。彼は興奮して、しかし見たところ崇敬の念をもって話している。その間二人は時々私のほうへすばやく好奇心の一瞥を向けながら聞いている。

ほどなく彼らはこちらへやって来る。黒い法衣の我が先生は、共に歩んで来た道へ戻って来たかのように草の上へ引き返して来る。白い法衣を着た二人の祭司は門の下を歩いて来つつ、互いに低い声でささやき合っている。着くと、ついて来るよう私に合図する。ついて行く。高屋根の涼しい回廊を通り抜けつつ、通り過ぎるものすべてをぼんやりと見る。それはいつものささいな癖だ。その間も前を行く二人の祭司は互いにささやき合い、時々こちらを横目で見る。なぜそうされるのかはわからない。

やがて回廊を抜け出て、大きな部屋へと入って行く。先ほどの老祭司が筆記者たちを教えていたあの部屋に似ている。中は刺繍を施したカーテンで仕切られている。荘重な折り目のカーテンで、高い天井から床まで下がっている。私は常に美しいものが好きだったから、そのカーテンが床に接した部分が豪華な金色の刺繍のおかげで堅く、そのため立っていられるさまに注目する。

 一方の祭司が進み出て、カーテンの脇に少し退きこう言う。

 「猊下、入ってもよろしいですか?」

 今またわずかに震え出す私。この人たちは私に対し不親切ではなかったのに、なぜもう厳しい試練の待ち受けていることがわかったのだろう。自然に起きたある種の恐怖の中で、美しいカーテンの向こうには誰が座っているのかしら、と思う。

 何に対してこんなにも長く震え、恐く感じるのだろう。カーテンの中へ入って行った祭司はすぐに戻って来る。彼について出て来たのは金色のひげのアグマハドである。

 アグマハドは、私以外の他の人たちに言う。

 「おまえたちはこの子と待っていなさい。私はカーメン・バカ祭司のところへ行って来よう」

 そう言い、再び私たちを大きな石の部屋に残して出て行く。

 恐れはまた三倍になって戻って来た。最初に会った時は祭司が堂々とこちらを見る中にも優しさが含まれていたため、恐怖心にそれほど屈しなかったが、今ふたたび、次にこの身にふりかかる事への漠然とした恐怖に私は突っ込んで行ったのだ。それについ先ほど気を失って倒れたことで私は弱くなっている。震えながら壁の方に置いてある石の長椅子にぐったり腰を下ろす。その間、濃い色の髪の祭司二人は互いに話し合っている。

 すぐに不安なことが押し寄せて私はまた気を失うのだろうと思ったが、アグマハドがもう一人別のたいへん高貴な姿の祭司を連れて戻って来たことで、私の境遇に起こるかもしれないことと、それへの疑念が突然また目覚める。

 その祭司は色白でブロンドの髪をしており、アグマハドのそれとそんなに違わない。姿を見せた時、威厳のある動かない外見が共通していた。その性質ゆえに先ほどはアグマハドが深い畏怖の物体のように思えたのだったが。そしてその黒い瞳には、他の祭司の表情には決してない慈悲心がある。彼を見て、恐怖心が薄らぐ。

 「この子だ」楽器が音を出すように冷たい声でアグマハドは言う。

 私は不思議に思う。なぜそんなふうに冷たく話すんだろう? 新参者とはいえ私はすでに先生に身をまかされたというのに。

 カーメン・バカが大きい声で言う。「兄弟たちよ、この子は透視家の白い衣を着るのが一番良かろう。沐浴させるがよい。湯浴みさせて聖油を塗るのだ。そうしてから私と、我が兄弟アグマハドが白い衣を着せよう。それから一人にして休息をとらせるのだ。その間、私たちは大祭司の面々にこのことを報告しよう。その子を沐浴させたらここへ連れて戻るように」

 若い祭司二人が私を部屋から連れ出す。彼らは祭司の階級で下位に属していることがわかってきた。さらに、今こうして彼らを見るに、その白い法衣には美しい金色の刺繍は施してなく、黒い線と縫い目で縁取りがしてあるのがわかる。

 とにかくこの疲れを癒す、よい香りの風呂に入るのは何と気持ち良いのだろう。まことの霊の苦痛をやわらげ、沈静させてくれたのだった。風呂から出ると、滑らかな香油を塗ってもらい、リネンのシーツにくるまれ、軽食が運ばれて来る――果物、油がたっぷりのケーキ、かぐわしい飲み物が、元気づけて丈夫にしてくれるように思われる。その後で再びあの二人の大祭司が待つ部屋へと連れて行かれる。

 二人の大祭司のほかにもう一人別の下位の祭司がいて、りっぱな純白のリネンの法衣を手に持っている。二人はその法衣を手に取る。他の人が私の体からシーツを取る。二人は一緒に法衣を私に着せる。それが終わると彼らは私の頭の上で手を組み、他の祭司たちはその場にひざまずく。

 それがどんな意味を持つことなのか、わからない。私はまたしても怖れ始める。しかし先ほど肉体に与えた茶菓が魂を大いに落ち着かせてきた。それ以上は儀式もなく、少し慣れて親しみを感じる二人の下位の祭司とともに再びそこを出る。私の霊は目覚め、足取りは軽くなる。

 二人に連れて行かれたのは小さな部屋で、リネンのシーツをかぶせた低い長椅子が置いてある。室内は他に何もない。目に、そして頭にしばらくの間、まさに何の興味もないままなのも無理はない。今朝神殿に入ってからというもの、どれほどのものを見たことだろう。門のところで握っていた母の手を放してからとても長い時間が過ぎたように感じる。

 一方の祭司が言う。「心安らかに眠りな。夜の一番涼しい時間帯に起こされるから、十分寝ておくんだ」

 そして私を残し、出て行く。

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第一部 1章

 それはまだ、しなやかに長いあごひげを生やす以前の幼い頃。私は祭司の見習いを始めるために神殿の門をくぐる。

 私の両親は街はずれで羊飼いをしていた。母が私を神殿の門のところへ連れて行くまでは、街の城壁内に入ったことはなかった。その日は街のお祭りがあるようで、倹約家でよく働く母は二つの目的を果たすためにやって来たのだった。私を目的地へ送りとどけること、そして街の観光地で短時間の休暇を楽しむことである。

 街の通りの雑踏と喧騒に私は心を奪われる。私の性質はつねに大きな全体(こんな小さな規模であっても)に自分自身をゆだねようと努力するものだったと思う。そして身をゆだねることで全体から生命維持の滋養物を吸い取っていたのだった。

 だが母と私は賑やかな人だかりをすばやく避けて行く。そして広々とした緑の平原に踏み入る。平原の向こう側には神聖な、最愛の川が流れている。あの景色をその時の私は、まだ何と無心に見ることだろう。川岸に神殿の彫刻を施した屋根、きらびやかな飾り、周囲の輝かしい建物が、澄んだ朝の大気の中に見える。何も期待していなかったため、怖いものはない。だた、あの門の内側での生活が私の想像と同じくらい美しいものかどうかがとても気になる。

 門のところで、黒い法衣を着た修道士が街から来た一人の女性と話している。その女性は携帯用の瓶に水を持って来ており、祭司にそれを清めてもらいたいと懇願している。彼女はそれを高く売るつもりなのだろう……迷信深い大衆に高い金額で買わせるための品だ。

 立ち尽くして話をする番の回って来るのを待ちながら、門の向こうを覗く。そして畏怖の念に駆られる光景を見る。その怖れは長く続き、のちにそこへ入っていつもその異彩を放つ人の姿に接するようになっても続くのだった。

 それは白い法衣を着た一人の祭司で、ゆっくりと広い小道を門に向かって歩いて来る。かつてたった一度、街を訪れた時を除いては、白い法衣の祭司たちを見たことがなかった。あの時には川を前進する神聖な船の中に何人かの祭司たちを見たのだった。

 でも今はこの人物はすぐそこにおり、こちらへ近づいている。……私は固唾をのむ。

 風は全然ない。その祭司が小道の日影を歩いて来た時、厳かな白い法衣は、まるでそれをそよがすことのできる微風などこの世に存在しないように思われる。祭司の足取りはそれと同じように落ち着いたものだ。彼は歩いて来るが、ほとんど動いていないように見え、まるで死すべき人間の荒々しい動きとは異なる歩き方のようである。彼は地面を見ているため、その目を見ることはできない。私はその垂れた瞼が上がるのをたいへん恐れた。彼の顔色は白く、髪は鈍い金色である。あごひげは長くたっぷりとあり、やはり同じように奇妙に静止したままで、ほとんど彫刻のようだ。それが風になびくとは想像できない。まるで金貨に彫られ、未来永劫、堅いままの彫像であるかのように思われるのだ。その人の全体的な印象はそんなふうだ。全存在が、人の普通の生活からかけ離れているようである。

 修道士は振り向く。おそらく私が凝視するのにつられて気がついたのだろう。祭司は少しも足音がしなかったからだ。

 「あっ、アグマハド祭司がいらした。聞いてみよう」と修道士は言う。

 背後で門を閉じてから、彼は向こうへ引っ込む。彼が祭司に何かを話すのが見える。祭司はかすかにうなずく。彼は戻って来て、女の人から水の入った瓶を受け取り、祭司のところへ持って行く。祭司はその瓶の上に一瞬、手を置く。

 女の人はたくさんお礼を言って帰って行く。それから今度は私たちの用件を聞かれる番だ。

 すぐに私は黒い法衣の修道士とともにそこへ取り残される。後悔はしていなかったけれど、非常に怖くてたまらない。それまでに父が飼っている羊たちの世話をするという普段の務めを好んだことは一度もなかった。そしてもちろん、一般大衆とは別の何かにこれからなろうとしている……という鼻の高い思いに、すでに心はいっぱいだ。その考えにある卑しい人間性は、のちに明るみに出されることになる。つまり永久に家を出てついに新たな未経験の人生行路に入って行くことよりも、もっと厳しい試練が待っていたのだった。

 背後で門が閉じられ、その黒い法衣の人が腰から下げた大きな鍵をかける。でもそのせいで監禁されたようには感じない。人里離れた場所の隔絶感だけがある。目の前に起きているような状況から、いったい誰が監禁されることを連想しようか?

 神殿の扉は門に面しており、広くて美しい道の向こうの端にある。その道は自然にできたのではなく、木々が植えつけられた並木道で、木々は茂りどれものび放題だ。大きな石桶に巨大な灌木が植えられているが、たいへん入念に剪定し誘引され、奇妙な形を形成している。灌木と灌木の間には彫刻を施した真四角の石塊が置いてある。門の間近にスフィンクスや他の半人半獣の像があるが、それ以上もの珍しそうに眺め続ける勇気は私にはなかった。再び金色のひげの祭司アグマハドが、いつも行き来する散歩道をこちらへやって来るのが見えたからだ。

 導き手の横を歩きながら、私は地面を見たままである。彼が立ち止まると私も止まる。祭司の白い法衣の裾が目に入って来る。その裾には象徴の符号が金色で精巧に刺繍してあり、しばらくの間私の注意を奪い不思議の念で満たすに十分である。

 「新しい見習いか」静かな声がそう言うのが聞こえる。「ふむ、学舎へ入れておやり。でもまだ若すぎるな。少年よ、顔を上げなさい。恐れなくてもよい」

 顔を上げる。そうすることで勇気が出る。こちらを注視する祭司と、はたと目が合う。きまりが悪いながらもその目を見ると、色が青やグレーに変化している。柔和なその色とはうらはらに、祭司の声は勇気づけられるようなものではない。実に穏やかで知識に満ちているが、聞くと震え上がるような声だった。

 彼は私たちにもう行ってよろしい、と言うように手を振り、再び道をむらのない歩き方で歩いて行く。その一方で、前よりずっと震え出しそうな私は、無言の案内人に黙ってついて行く。成形されていない巨大な石塊のそばに神殿の大きな中央門があり、そこから入って行く。神聖な祭司の両眼に厳しい尋問を受けて、おそらく一時的な恐怖のようなものが湧いて来たのだろう。私はこれらの石塊を漠然とした恐怖感を持って眺める。中央門から、建物を突き抜ける道に沿ってのびる長い通路が見える。だがそちらへは行かない。そこから外れ、網状に広がる細い廊下へ向かう。そして空っぽの部屋をいくつか通り抜けて行く。

 ついに大きく美しい部屋へ来る。美しいと言っても全くがらんとして、隅のテーブル以外には何もない。それでもその部屋は壮大で、建造物としての気品にあふれ、建築的な美を識別することに慣れていない私の目にさえ、不思議にも満足感とともに感銘を与えた。

 部屋の隅のテーブルで若者が二人、何かを書き写すか描写しているが、何を書いているのかよく見えない。なにしろ彼らはとても忙しそうに見える。私たちの入って来たのを見るために頭を上げることもほとんどしない彼らが不思議だ。だがさらに、壁から大きく突き出た石の陰で、年老いた白い法衣の祭司が膝の上に置いた本を見ているのに気づく。

老いた祭司は私をここへ連れて来た修道士が目の前でうやうやしくお辞儀をするまでこちらに気がつかない。

 「新弟子だと?」老祭司はそう言って、ぼんやりかすんでよく見えない目で鋭く見る。「何ができるんだ?」

 「たいして何もできないでしょう」と、穏やかな声で軽蔑を込めて、導き手はそう言う。「この子は羊飼いだったのです」

 「羊飼い!」とおうむ返しに老祭司が言う。「ここでは使いものにならんな。庭仕事がぴったりだろう。筆写や描写を学んだことはあるか?」私のほうを向いて彼はそう聞く。

私はそれらを学んではいたが、今求められるような嗜みは、祭司を養成する学舎や、聖職者以外で高度な教養を有するわずかな階級以外にはめったに持ち合わせていないのだ。

 老祭司は私の両手を眺めると、また本へと戻る。

 「その子もいずれは学ばねばならんが、今は仕事が忙しすぎて教えてやれん。猫の手も借りたいくらいだ。これらの聖典の筆写をやり終えねばならんから、その無学の子に教えている暇がないのだ。しばらく庭園へ行かせておけ、そのうち取り計らってやろう」と老祭司は言う。

 導き手はくるりと向きを変え、部屋から出て行く。もう一度美しい部屋を見回してから私は彼について行く。

 長い長い廊下は暗くて、涼しくさわやかである。突き当たりはドアではなく門扉になっていて、導き手はけたたましくベルを鳴らす。

 ベルが鳴ってから黙ったまま待つ。誰も来ない。導き手はまたすぐにベルを鳴らす。私には急ぐ気持ちはなかった。門扉の柵に顔を押し付け、外の世界を見て必然的に心の中でこう思う。「あのかすみ目の祭司がまだしばらくは僕を庭園から連れ出そうとしないのは、悪いことじゃないな」

 家から街までは埃っぽく暑い道のりだった。舗装された道が田舎育ちの私の脚を果てしなく疲れさせたようだ。今、神殿の門扉の内側にいる私はまだ大きな並木道をやって来たばかりで、そこでは見るものすべてが感慨無量だったし、すべてに怖れおののいていたので、よく見るということができない。だがここはうっとりするような、すがすがしい美観の世界だ。このような庭園は見たこともない。緑がある。深い緑だ。水の音がしている。管理された静かな川のせせらぎは、いつでも人に水を供給し、猛暑のさ中に元気づける用意ができている。せせらぎは生彩あふれる壮麗な川だと言われ、庭園の外観に豪華さを加えている。

 三度目のベルが鳴った――そして緑の茂みから黒い法衣の人影が来るのが見える。そこでは黒い服がなんと場違いなことか! うろたえながら私は思う。あの黒い法衣は遠からず自分も着るはずだ、そしてそれを着てこの魅惑的な場所のなまめかしい美しさの中を、闇の領域から迷い込んだ生き物のようにさまようはずだ、と。

 目の粗い刷毛で塗った仄かな木の葉の一群のように、その人影は近づく。近くまで来たその顔に突然、興味が湧き、じっと見入る。私はこの人に預けられ、世話してもらうのだろうと思う。それも無理はない。その顔はどんな人の胸中にも興味を呼び起こす顔なのだ。

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プロローグ

 いかにも私は孤独だった。大勢の中でたった独り、たくさんの同志たちの中で孤立していた。孤独だった。それは知識ある神殿の仲間たちの中で私だけが、知識と教える能力の両方を兼ね備えていたからだった。門のところで信者たちに教えた。神殿に宿る支配力にそうさせられたのだ。逃げられはしなかった。神殿の至聖所の深い闇の中に、内なる生命の光を見たからである。その光を示すよう強要され、その光に支えられて私は強くなった。私は死んだが、神殿の十人の祭司たちが私を死に追いやることに成功し、そのとき無知にも自分たちが強いと思ったのである。

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