睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

第二部 1章

  ここは神殿の庭園。大きな木が深い影を落とす真下で、私は草の上に横になっている。疲れきっている。一晩中、至聖所の前で暗闇の霊のメッセージを祭司たちに話して聞かせていたのである。暖かい空気の中でウトウトし、不思議にも悲しみでいっぱいになって目覚める。私の若さはもう去ってしまったと感じる。まだ燃えるような情熱も味わったことのないままで。
  私の両脇には若い祭司たちがいる。一人が幅の広い葉っぱであおいでくれている。頭上の木から彼が取った葉っぱだ。もう一人は草についた手にもたれて、真剣に私を気づかっている。大きくて黒く、美しい彼の目は、優しい動物の目に似ている。しばしば私は彼の美しさに見とれた。横にいてくれるのがうれしい。
  「ほらご覧なさい、あなたさまは室内にいすぎるのですよ」彼は私が疲れきった目を見開いて顔を見つめるとそう言う。「あなたさまが唯一、生命を与えてくださる方だからといって、誰も神殿の儀式ぜめであなたを殺したくはないでしょう。街までご一緒して、神殿の空気と違ったことを体験しませんか?」
  「無理だ」と答える。

  「無理ですって?」と彼、マーレンが軽蔑するかのように言う。「私たちがここに監禁された囚人とお思いで?」
  「ここからうまく抜け出せたとしても、人々にばれるだろう。祭司は人々の中へ出て行かないものだから」
  「街の人々は私たちが誰なのかわからないでしょう」とマーレンは陽気に笑って言う。「アグマハドは自由をくださった。アグマハドは能力をくださった。行きましょう、よろしかったらーーさあ」
  二人は立ち上がり、私を立たせるために手を差し伸べる。だがもう私は弱っていない。はじかれたように立ち上がり、白い服を整える。そして「このローブを着ていくのか?」と問う。
  「ええ、ええ、ですが誰も私たちのことを知らないでしょう。物乞いとして行きましょう。または王子様の一行として。何のふりがいいですかね。アグマハドは能力をくださった。行きましょう!」
  冒険を期待して、彼らと同じくらい私はうれしいのだった。私たちは庭園を走って横切り、壁のところの狭い門にやって来る。マーレンがそれに触れる。押すとすぐに開く。私たちは神殿の外へ出る。
  連れの二人は行きながら笑い、しゃべっている。平原を横切り、私たちは街へと走る。私もまた走りながら、二人がしゃべるのを聞いている。だが何と言っているのか、ほとんどわからない。明らかに二人は街を知っている。私がその名称しか知らない、街を。確かに田舎者のはだしの少年だった私は母と共に街を通り抜けたのだったが。今は家々の中へ入り、偉大なお金持ちの人々と交流することになっている。そう思うと怖くなる。
  私たちは最もにぎやかな繁華街の一つへと急ぐ。美しい服を着た愉快そうな人々でごった返している。そして店という店はみんな宝石類しか売っていないようだ。それから大きな門構えをくぐって中庭へ入り、大理石の大広間へと進んで行く。そこは大きな噴水が勢いよくしぶきを上げていて、花咲く巨木が強い芳香を放っている。
  幅広い大理石の階段がこの大広間から外へと続いており、私たちはすぐに上り始める。一番上まで上りきると、マーレンが戸を開き、私たちは壁の全面に金色のタペストリーが掛けられた部屋へ入って行く。そこにはたくさんの人がいて宝石と服がきらびやかに私の目をくらませる。人々はテーブルを丸く囲んで座り、ぶどう酒を飲み、甘い菓子を食べている。おしゃべりと笑い声がガヤガヤと賑やかに部屋を埋め尽くし、香水の香りも満ちている。三人の大変美しい女性が立ち上がって、私たちを出迎える。私たち三人のそれぞれに一人がついて、手を取り隣へ座らせる。饗宴の時のようだ。私たちは笑って人々に混じり、ご馳走が全部食べ尽くされるまで座り通したみたいだ。香り高いぶどう酒を飲んだせいか、はたまた刺繍されたテーブルクロスの上で私の手に幾度となく美しい手が触れるという魔法のせいなのかわからないが、頭がフラフラしてきて妙な感じになり、一時間前だったら私の「理解したい」という望みが勝って退屈だったろうに、これまで知りもしなかったことをしゃべり、誰かの言ったことに笑っているのだった。
  私の隣に座った女性は、私の手を握りしめる。彼女を見る。彼女がもたれかかる。その顔は若さと美しさに輝く。華麗なドレスは横にいる私に、自分が子供であるかのように感じさせた。だがこうして今彼女を見ると若い。私自身より若いが、このように華麗な格好をしてまばゆいばかりの愛らしさであるので、子供時代にもさぞや魅力的な女性だったのだろう。その優しい目を見つめながら、彼女のことをよく知っているような気がしてきた。その魅力が見知ったものであり、よく知っていると感じることが魅力的だと感じることよりも強いのだった。彼女は多くのことを私に話したが、最初はほとんど理解できなかった。それどころか、まるで聞こえなかった。だが耳を傾けるにつれてしだいに理解できるようになった。彼女は言う。私がいないと恋しい、私を愛している、私以外のものにはすべて飽き飽きしている、と。「あなたが行ってしまったらまた戻って来るまで部屋の中は暗く、静まり返っているわ。晩餐会なんて何の楽しみもない。他の人たちは笑うけれど、その笑いは私の耳にはむせび泣きのように聞こえるんだものーー苦しみのむせび泣きに。それは私の代わりに泣いているの? 若くて丈夫で愛に満ちた私が、そのように悲しいはずがあって? いいえーーいいえ、わたしの泣き声ではないわ。ああ恋人よ、私の夫よ、二度とふたたび私を独りにしないで。そばにいて、そうすればこの愛の情熱があなたに天意を果たす強さを与えるから」
 私はサッと立ち上がり、彼女の手をギュッと握りしめる。
 「そうだとも」思わず大声で言う。「人生の栄光を顧みないなんて悪いことをした。告白するよ、私のものであるあなたの美しさは、心からぬぐい取られていたんだ。でも今はこうして自分の目であなたを見て、これほどの美を天にも地にも、他に見たことがあっただろうか」
 私が話していると急に、びっくりしたお客たちの中に動きが起こる。みごとな素早さで彼らはテーブルを離れ、いきなり部屋から出て行く。二人の若い祭司だけが残る。二人は私をじっと見ている。死んだみたいに深刻そうで、動揺しているようだ。二人ともゆっくりと立ち上がる。「神殿へお帰りにならないんですか?」とマーレンが言う。私はイライラする心を身ぶりで伝える。マーレンが聞く。「お忘れですか? 私たちが街の愚劣さを見て、それが土からなる人間の手により為されると知るために来たのを。おわかりでしょう、イニシエーションを受けた祭司は純潔を保たねばなりません。あなたさまはどうなのですか? 神殿の透視能力者よ。修練者にすぎない私でさえ、あえて自由に激しく恋い焦がれる心で魂を満たしたりしません。ああ、自由! 街の子に生まれていたなら、人生の意義を知っていたなら! でもそうする勇気がありません。まさしく私は修練者にほかならず、神殿に地位はなく、世の中に居場所はありません。あなたさまはどうでしょう、透視能力者よ? アグマハドにあなたさまのことをどうお伝えすればよいのですか?」
 私は答えない。だが横に座っていた彼女が立って、マーレンへと進み出る。彼女は首からジュエリーを外し、マーレンの手にのせる。
 「これをアグマハドに渡して。そうすればそれ以上何も聞かれないでしょう」

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11章

 目が覚めると昼の光が燦々と降り注いでいる。ぐっすりとよく眠ったものだ。花でいっぱいの私の部屋は、まるで庭園だ。目は喜んで花から花へとさまようが、すぐにある物体が照らし出され目線がくぎ付けになる。部屋の真ん中でひざまずく人の姿だ。一人の祭司が低く頭を下げている。私はそれが誰だかわかる。カーメン・バカだ。そばへ行く。そしてかすかな音で合図し、頭を上げさせ、こちらを向かせる。彼のそばに来る途中、私の横に本が開いて置いてあるのを見つけた。その本のページをじっと見る。その光る文字を見、無意識に声に出して読んでいる。ついに読み終えた時、それ以上は普通の言葉ではなくヒエログリフになっていて、読めなくなっていた。

 カーメン・バカは飛び上がるように立った。見ると顔全体が狂ったように喜びに燃えている。

 「あの者が、今日私の足に口づけするぞ」と彼は声高に言う。それから不思議そうに見ている私に言う。「全部読んでくれませんか?」

 「今わかるのはこれだけなんです。残りの部分は知らない文字なのでわかりません」と答える。

 カーメンはすぐに部屋を出て行く。彼を異様に興奮させた言葉を見ようとあの本のページに目をやる。そこに書かれた言葉はもう理解できなくなっている――すべてヒエログリフに変わっている――。がっかりだ。自分で読んだ言葉がもう思い出せないとわかったからだ。この奇妙な出来事にとまどい、しだいに疲れてくる。そしてとうとう、不可解な本の開いたページに頭をのせ、また眠り込んでしまう。深い、夢のない眠りから、私は音にびっくりするまで目覚めなかった。気がつくと部屋に若い祭司が二人いる。ケーキとミルクを手にしていて、私に差し出すためひざまずく。私は怖かった。そうでなければ笑っていたろう。田舎から来た少年にこんなふうにひざまずいて傅くなんて。食べる間、彼らは立ち去る。だが長くは一人でなはかった。カーテンが引かれ中へ入って来た人を見て、飛び上がって笑ってしまう。庭師のセボウアだった。

 「どうしてここへ来られたの? 本当にもう二度と会えないと思ったよ」

 「アグマハドがあっしをここへ来させたんだ」と彼は言う。

 「アグマハドが!」驚いてそう言う。彼に近寄り、その腕を手で握ってみる。

 「そうとも、あっしは本物のあっしだ。あっしの幻影なんて作れるわけない。おまえさんがあっしを見たら、それは本物だから信じるんだ」

 そのように彼は怒った口調でなげやりに言い、ほんの少しの間おびえるが、それもそう長くはない。醜い顔にあのちょっと変な微笑みが浮かぶ

 「おまえさんは庭園へ来ることになった、あっしのもとにな」と彼は言い、黒くて大きい手を広げる。そこへ私の手を置く。そして一緒に部屋を出てすばやく空っぽの大きな部屋をいくつか通り過ぎ、神殿の長い廊下を進み、かつて初めてセボウアの顔を見たあの鉄の扉のある狭い入り口に着く。当時のように今も、庭園は向こうで輝き、緑と光と色彩のビジョンとして光る。

 「わあ! ここに戻って来られてうれしいな」

 「おまえさんは最初にここへ働きに来た。あっしと一緒にせっせと働くことになってたんだ」とセボウアは自慢げに言う。「今ではすべてが変わってしまった。おまえさんは遊んでいて、働かない。そしてあっしはおまえさんを小さな王子様みたいに扱うことになってる。いやはや! もうスポイルされちまったのかなァ、坊や? 水浴びしなさるか?」

 「だけど、どの池で? 僕、池の冷たくて深い水に飛び込んで泳ぎたいよ」

 「泳げるのか? 水が好きだって? よしおいで、本当に冷たくて深い池に連れて行ってあげよう。一緒に行こう!」

 セボウアは歩いて行く。私はついて行くため早足で歩く。歩きながらセボウアは何かぶつぶつ言っているが、聞き取れない。本当は聞いてなどいなかった。私はただこんな暑くてだるい朝に、冷たい池へ飛び込むのは素敵なことだと考えていたのだ。

 大きくて深い池に着く。どこか上の方から素早く水がポタッ、ポタッと滴り落ちて来る。

 「ほら池だ。花ははないから泳いでも損なう心配はないよ」とセボウアは言う。

 暖かい日差しの中、池の縁に立ち、白いローブを脱ぎ捨てる。そして見回し、なんて素敵な太陽だろうと思う間もなく、一気に水中へ飛び込む。わあ! 冷たい! ほとんど息もつけぬほどの冷たさに驚く。でも私は泳ぎ出す。すぐに肌を刺すような水の爽快感がうれしくなる。この快い爽やかな水の中で強く、鋭く、そう感じる。ここには神殿の中のきつい香の香りや部屋の中に濃厚に香る花々に囲まれるけだるさはない。とても幸せだ。いつまでも太陽の光に包まれこの水の中にいたい。すぐに泳ぐのをやめ、ぼんやりと水面に浮かぶ。太陽の光に目を傷めないよう閉じる。

 その時、急に何かがとても異様に感じられ、息ができなくなる。でもそれは穏やかなので恐怖は感じない。それは口づけだった。目を開ける。横で水面に浮いているのは、私の女神、睡蓮の女神だった。おもわず口から歓声が漏れる。ただちに、最後に女神がいなくなって以来の喜びが心からあふれ出たのだ。私の女神、美しい友がそこにいるだけで全世界の他のものは無に等しくなる。

 「坊や、また私のところへ戻って来ましたね。でもすぐにまた私のもとを去ってしまうでしょう。あなたが私のことをすっかり忘れてしまったら。どうやって助ければいいのでしょう」と女神は言う。

 恥ずかしくて返事できない。本当に忘れていたなんて、ほとんど信じられないが、それは事実だ。

 「あなたが浮かんでいるこの池は、天界の、我が花・睡蓮が住まう場所より水が流れて来ているのです。あなたが死ぬ時にはそこへ行くでしょうから、水の中に睡蓮の花たちは住んでいます。でもそこから滴る水は少ししかない花たちの命なのです。花々にはもう滴らないのです。蓮池へ飛び込むとあなたは鷲のように強くなり、生まれたばかりの若い生命のように情熱にあふれるでしょう。我が子よ、強くありなさい。あなたを誤らせる、へつらう者の言うことを聞いてはなりません。私が日の光の下におく者の言うことだけを信じなさい。幻に惑わされてはなりません。生きているものの命があなたを待っているのですから。知識と愛の清い花が喜んであなたに摘まれようとしているのです。自分たちのためだけを望む者たちに、ただの道具として使われるのですか? とんでもないこと! 知識を得て強くなりなさい。その上であなたは世界に光を与える者となるでしょう」

 この言葉は私が目覚めるのと同時に耳に囁かれるように感じた。言われたことを何度も何度も繰り返して、一語一語を正確に記憶した。しかしそれは私にとって漠然とし、意味をなさないものであった。最初に聞いた時は理解したように思えたが、今の私にとってそれは、お祭りの時に踊り手たちに説教師が教えを説くようなことだった。

 

*   *   *   *   *   *   *

 

 あの言葉が耳もとに囁かれた時、私はまだ子供だった――少年で無力だった。無知で幼すぎた。時がたち成長する間、睡蓮の女神から私の魂に呼びかける声は意味のわからぬまま、脳のはっきりしない部分でかすかに鳴り響いた。女神からの声は、祭司が幼い私に歌った歌のように、まるで音楽のように聞こえた。今もまだ忘れはしない。私の人生は霊も肉体も縛りつけておく者たちに明け渡された。重い足かせがまだ覚醒していない私の魂にはめられていた。体は神殿の支配者たちの指導にぼんやりと明け渡しながらも、大空の下に自由が存在することを、私は知っていた! しかし彼らに盲目的に従ったけれど、そして神聖さの汚された神殿の卑しい目的に私の強さと力のすべてを与えてしまったけれど、ハートの中では美しい女神の思い出をしっかりつかんでいた。そして心の中に、女神の言葉が消えぬ火の文字で書きつけられていたのであった。背丈が大人の大きさにまで伸びたけれど、内なる魂は弱々しくはっきりしていなかった。魂の中に女神の言葉は星のようにとどまり、私の不運な人生に不思議な光を投げかけた。そして私が精神的に大人になるにつれこのことに気づき、死や絶望に達するほどにまで極度に疲れ果て、世界のあらゆる美を自分から遮断したのだ。陽気な子供、幸福な太陽の光の子から、私は悲しい青年に成長した。大きな目に涙があふれそうな、悲しいハートの中にたくさんの秘密を隠している、恥辱と罪と悲哀を半分しか理解できない青年に。時おり、庭園を通って行く時、蓮池の静かな水面を見つめてあのビジョンをまた見られるよう祈った。だがそれは叶わなかった。子供時代の無垢さは失われ、人としての強さもまだ持っていなかった。

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10章

 「カーメン・バカに伝えよ、そなたの心の欲望を私は知っている、そしてそれは叶う、と。だがそれにはまず、あの運命の言葉を言わなければならない。」

 アグマハドはおじぎをすると向こうへ向き直り、黙って至聖所を後にする。

 また女神と二人きりだ。彼女は近寄って来て、怖ろしい目で私の目をくぎ付けにする。

 じっと見ていると女神は私の前から消えてゆく。そこには金色の光が残り、中にだんだんある形ができてゆく。これまでに見たどんなものよりも美しい。

 木だ。葉をいっぱいにつけているが、葉というよりも柔らかな髪が垂れているかのようだ。それぞれの枝にはたくさんの花が厚い花びらを開き、金色や、派手で華やかな色の鳥たちが飛び交い、燃え立つような花々の間をあちらこちらでさっとかすめる。ついに目がくらんで言う。「この鳥を一羽、僕にちょうだい。この花の中と同じように僕のもとで快適に過ごさせてあげるよ」

 「百羽あげよう。鳥たちはそなたが大好きになり、そなたの口にキスをし、そなたの唇から餌をもらうであろう。後でそなたはこの木と同じような木の生えた庭園を持つことだろう。鳥たちはみな、そなたが好きになる。でもまず私の命令どおりにしなければならないよ。カーメンに言って、至聖所に入って来させよ」

 私は言う。「入りなさい。カーメン・バカ祭司よ、入るのです」

 彼は来た。奥の洞窟の入り口から中に入り立っている。木は消え失せ、私の前に黒い姿が、光るローブをしなだらせ、冷酷な目を光らせている。その目は祭司に据えられている。

 女神はゆっくりと言う。「彼にお言い、その心の飢えは満たされるだろう、と。その者は愛を欲しているのだ――それを手に入れるであろう。神殿の祭司たちは冷たい顔を向け、その者は皆の心が石のように感じられるだろう。そして皆が周りでひざまずくのを見たいと思うであろう。皆がその者を崇め、すすんで虜になるのを。今までのように彼が私のものであることを受け入れるならば、それは実現するだろう。皆の心の欲情を満足させ、その代わりに皆は彼一人を台座に載せて崇めるだろう、私だけのものである彼を。十分にすばらしい褒美であろう?」

 女神はその言葉を強い軽蔑をこめて石に示し、その怖い顔にカーメンの狭く限られた大望をさげすんでいるのが見て取れる。私がその言葉を読み上げるにつれて皮肉な意味合いは消えてゆく。

 カーメンは頭を下げる。その顔に異様な歓喜の輝きが表れる。

 「仰せの通りです」と彼は言う。

 「ではあの運命の言葉を口にせよ!」

 カーメン・バカはひざまずき、頭上高く手で輪をつくる。顔が苦しみの表情に変わる。

 「今より後、すべての人が私を愛しても、私は誰も愛しません!」

 黒い姿はすべり寄り、手をカーメンの頭に触れる。「そなたは私のもの」と女神は言い、背を向ける。その微笑みは暗くて冷たく、顔は北方の凍りつく寒さのようだ。女神がカーメンに教えと導きを与えるつもりであることがわかった。アグマハドに対しては、どちらかと言うと女王がその寵児に話すようだ。重んじると同時に恐れている寵児、強さを持った者に。

 「さあ坊や、やることがあるのだよ」女神は近づき、そう言う。「この本の中に、私の奉仕者となるであろう祭司たちの胸の内が書かれてある。そなたは疲れており、休まねばならない。私はあの者たちのように、そなたを害するような真似はせぬ。私がひいきにするにふさわしい強い男に育ちなさい。さあこの本をかかえて持ってお行き。早朝、起きるとすぐにカーメンが来るだろうから、最初のページを読んで聞かせるのだ。最初の課題を成し遂げられたら、彼は再び早朝にあなたの所へやって来るであろう。そうしたら二番目のページを読んでやるがよい。そのようにして最後まで読み終えなさい。今言ったことをカーメンに伝えて、難しいからとて一時たりともあきらめぬよう言うのだ。困難を乗り越えるたびに彼は力を増し、すべてを成し遂げた後には最高の高みに立っているであろう」

 言われたことをカーメンに伝える。入口に立って両手を胸のところで握り、頭を垂れているので、カーメンの顔は見えない。だが言葉を伝え終わると彼は頭を上げ、「従います」と言う。

 その顔は前に見たような異様な輝きを今も帯びている。

 女神は言う。「彼に行くよう言うのだ。そしてアグマハドにここへ来るよう伝えよ、と」

 その言葉を伝えると、カーメンは静かに出て行く。その身のこなしから、彼の目にはここはすべてが闇であるとわかる。

 しばらくたってアグマハドが入り口のところに立つ。女神は近寄り、手を彼の額に当てる。すぐにそこに王冠が現れる。アグマハドは微笑む。

 「それはそなたのものとなろう」と女神は言い、さらに続ける。「アグマハドにこう言うがよい。それは最も偉大な王冠。ただしこの世で、だ。もっと偉大な王冠があるが彼はそれを戴くことはできぬ。さあ、彼に指示をお出し。あなたを腕で抱き上げ、寝台へ横たえなさい、と。あなたは本をしっかり抱えなさい」

 その言葉をくり返して伝えている間に、女神はそばへ来て私の額に触れる。とても快いけだるさが訪れる。女神の言葉は伝えるそばから、私の唇より立ち消えてゆく。でも二度言い直すことはできず、すべてが薄れてゆく。私は眠ってしまう。

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9章

 今は夜。眠く、満ち足りている。甘く香る空気の中、あちこち走り回って、楽しく幸せだったからだ。夕方ずっと花に囲まれた寝台で眠った。花々のおかげで部屋はよい香りがただよい、私は奇妙な夢を見た。夢の中でどの花も笑った顔になり、笑う花々の魔法のような声が耳いっぱいに響いた。急に目が覚めて、まだ夢を見ているに違いないと思う。月光が部屋へ差し込み、美しい花々を照らしているからである。そして私が育てられていた質素な家のことをあれこれ思いめぐらす。かつてどうしてあのような所で耐えられたのだろう。今や美こそ人生のように思われる。

 とても幸福だ。

 夢見ごこちで横たわったまま月の光を見ていると、急に廊下側の扉が向こうから開かれる。外の通路は光に満ち、その輝きは、月の光も闇のように見えるほどだ。目がくらむ。それから修道士が大勢、光が強すぎて見えないが何か持って入って来る。彼らは出て行き扉を閉める。私は一人月光の中で、じっと動かない長身の、白いローブを着た二人と共に残される。二人が誰だか見なくてもわかる――アグマハドとカーメン・バカだ。

 初めのうち震えたが、急にあの子が影からすべり出て来る。あの子は指を唇に当てて黙るように合図し、微笑んでいる。

 「心配しなくていいよ。あの人たち、あなたが用意しろと言ったきれいな儀式の服をあなたに着せるところよ」とあの子は言う。

 寝床から起き上がり、祭司たちを見る。もう怖れてはいない。アグマハドは静止したまま立ち上がり、私をじっと見る。カーメンが私に近づく。両の手に白い衣を持っている。それは良質のリネンで、重厚な金の刺繍が表面を覆っている。何か字をかたどった刺繍のようだが、読めない。その衣はアグマハドのものよりもさらに美しく、これほど美しいものは神殿に来てこのかた見たことがない。

 うれしくて、その衣へ手を伸ばす。カーメンがそばに来て、私が今まで着ていた衣をわきへ脱ぎ捨てると、彼自身の手で新しい衣を着せる。

 それはかすかな芳香がしみ込ませてあり、私は大喜びでその香りを吸い込む。まるで王様の衣のようだ。

 カーメンは扉へと進み、開く。きらめく光がいっぱいに私を照らす。アグマハドはじっと立ったまま、私を見つめ続けている。

 あの子は感嘆のまなざしで私を見、喜んで拍手する。そして片手を差し出し、私の手を取る。「行こう」と彼女。一緒に廊下へ出る。アグマハドがすぐ後ろから来る。そこで思いがけない情景に驚き、立ちすくむ。広いその廊下は祭司たちでいっぱいで、かろうじて私の立っている場所を残して至聖所の扉近くまであふれている。ここに広いスペースが残されており、寝台が一つ置かれている。絹製の布がかぶせられ、その布には私の衣と同じような字の形の金の刺繍がしてある。寝台の周りはよい香りの花々が列をなして塀のように取り囲んでおり、床一面に摘み取られた花が敷き詰められている。群がり集まった大勢の祭司たち、白い服を着て目はじっと私に向け静止したままの祭司たちから、後ずさる。しかし美しい花々の色に私はうれしくなる。

 「この寝台はあなたのためにあるの」とあの子が言い、いざなう。他には誰一人、動きも話しもしない。彼女に従って前へ進み、寝台の上に庭園のボールを見つける。あの遊んだ時のボールだ。急にアグマハドが私を見ているかどうか気になって見てみる。彼は至聖所の扉のそばに立ち、私を見ている。カーメンは私とあの子のそばから至聖所の扉を見つめている。まるで何かの言葉を繰り返すように唇が動いている。誰一人としてあの子と私に腹を立てないようなので、あの子を振り返って見る。彼女はボールをサッと手に取り、大きい寝台の端に飛び乗る。その派手な動きに私も我慢できなくなって、同じようにもう一方の端に飛び乗り、共に笑う。彼女が私にボールを投げる。私は手で受け止める。でもそれを投げ返す前に、突然廊下は深い完全な闇に沈む。一瞬、ものすごい恐怖に息をのむ。でもすぐにあの子を見ることができるのに気づく。笑っている。彼女へボールを投げる。彼女は受け取り、そしてまた笑う。周りを見ると、他には何も見えず真っ暗闇である。前に闇の中で見たあのすさまじい姿が思い浮かぶ。今そこにいるのはあの子だが、私は恐怖のあまり大声で叫んでしまう。あの子はこちらへ来て、手に手を重ねる。そして言う。

 「恐いの? 私はちっとも。怖がらなくていいのよ。あの人たちは危害を加えないわ。あなたを崇拝してるんだもの!」

 彼女が話す間、音楽――陽気で素晴らしい音楽――が聞こえてきて、私は心臓の鼓動が早くなり、足が踊りたくてむずむずし始める。

 直後に、光が至聖所の扉を照らすのを見る。そして扉が開く。あのすさまじい姿が現れるのだろうか? そう思うと手と足が震える。でもまだ、かつてのように勇気を全部失ってはいない。あの子がいることと、楽しげな音楽のおかげで、独りぼっちの恐ろしさは近づいていない。あの子は私の手を握ったまま立ち上がる。二人で至聖所の扉に近づく。気が進まないが、うながされて抵抗できない。扉から中へ入る。それと同時に音楽がやんだ。再びすべてがしんと静まりかえる。至聖所の中はかすかな光がある。それは室内の向こう側から差して来るように見える。あの子は私を光のほうへ連れて行く。あの子が一緒にいる。怖くない。部屋の突き当たりに奥の院として小さい部屋があり、岩壁をくり抜いてできているようだ。十分見えるだけの光がここにはあるからわかる。一人の女性が低い座に腰かけ、膝に開いた大きな本に頭を近づけ前かがみになっている。目は即座にその人にくぎ付けになり、離せなくなる。その人を知っている。その人が頭をもたげ、その顔を見るのだと思うと、心がぞっとして震える。

 突然、あの子がいなくなっていることに気づく。至高の魅惑のせいで目はくぎ付けになっており見て確かめられないが、手が握り返されていないのでわかる。あの子は消えてしまった。

 私はあの神殿の並木道に彫られてあった彫像のようにじっとしたまま待つ。

 とうとうその女の人は頭をもたげて私を見る。血が戦慄し冷たくなる。その鋼鉄に彫られたような目のために、私は凍りついてしまったかのようだ。でも恐ろしいその光景を阻んだり目をそらしたり、自分の目をそれから隠すことさえできない。

 「そなたは私に教わりに来た。よろしい、教えよう」と女の人は言い、その声は静かな楽器の音のように低く、快く聞こえる。「そなたは美しいものや花が好きだ。ただ美しいものとだけ生きるならば、偉大な芸術家になるだろう。でもそなたはそれ以上の者とならねばならない」女の人は私に手を伸ばす。私は意志に反して手を差し出すが、ほとんど触れることはできない。ほんのわずかに手を触れただけで、私の手にバラの花があふれ、辺り一面にその香りがあふれる。女の人は笑う。その声は音楽である。きっと私の顔は彼女を喜ばせているだろうと思う。

 女の人は言う。「さあ来るのだ。そばに立ちなさい。そなたはもう私が怖くないのだから」目はバラにとらわれたまま、私は近づく。顔を見ていなければ怖くない。

 彼女は腕を回して私を抱き寄せる。突然、その黒いローブがリネンや布でできたものではないとわかる――それは生きている――とぐろを巻いた蛇のローブだ。彼女にぴったりと巻き付き、まるで柔らかい布が垂れているように見えるのが、少しだけ離れて立つとわかった。今や恐怖に打ちのめされる。叫ぼうとするができない。逃げようとするができない。また彼女は笑う。今度はその笑い声は耳ざわりな音である。でも見ている間にすべては変わって、ローブは黒いままだが生きてはいなくなった。恐怖に凍りつく中、驚き息を止めて立ち尽くす――彼女の腕はまだ私に回してある! 彼女はもう一方の腕を持ち上げ、私の額に当てる。すると恐怖が完全に消えた。幸福で安らかな感じがする。目を閉じているが見える。意識している。でも動きたいとは思わなかった。女の人は立ち上がり、その腕で私を引っ張り上げ、それまで彼女が座っていた石の座に私を座らせる。頭が後ろの岩壁に当たる。私は何も言えずじっとしているが、見ることができる。

 女の人は背筋をピンとのばし、腕を頭上高くのばす。再び蛇たちが見える。蛇たちは激しく動き、活気に満ちている。衣服だけでなく、彼女の頭にも蛇が。髪が蛇になっているのか、蛇が髪の中にいるのか、見分けがつかない。両手を頭上高く組むと、その恐ろしい生き物は彼女の腕に巻き付きながら吊り下がる。だが恐ろしくない。恐怖は永遠に去ってしまったようだ。

 ふいに至聖所に別の存在がいることに気づく。アグマハドだ。奥の洞窟の入り口に立っている。

 驚いてその顔を見る。アグマハドの顔は静止している。目はぼんやりして何も見ていない。そして私は知る、本当に見えていないのだ、と。この姿、この光、私自身が、すべて彼には見えないのだ。

 女の人はこちらを向いていたか、または身を傾けていたので、私には彼女の顔が見える。その目は私を見ており、目も他の部分も動きもしない。それらのはがねに刻まれたような目は、もう私を恐怖でいっぱいにすることはないが、何か鉄製の器具で押さえつけるかのようにしっかり私をつかんでいる。彼女を見ているうちに、ふいにあの蛇たちが変化し消え、しなやかにひだを重ねた柔らかいグレーの、かすかに光る服になる。そして束になった蛇たちとその恐ろしい目は、星のように輝くバラの花束になる。バラの花の強くてきつい香りが至聖所に充満する。するとアグマハドが微笑む。

 「わが女神はここにおられる」と彼は言う。

 「あなたの女神はここにおられる」と私は言う。そして自分のその声を聞くまで、しゃべったこと自体知らずにいた。「女神はあなたの望みを知らせてくれるのをお待ちです」

 彼は言う。「教えて下さい、女神は何のローブをお召しか」私は答える。「光がきらめき、肩にはバラの花がある」

 「私は楽しさを望みはしません。わが魂はそんなものを見るのも嫌です。私は権力を求めます」と彼。

 今まで私の目を見すえる彼女の目が何を話すか教えていたが、今、再び彼女の声が聞こえる。

 「神殿の内部でか?」

 私はその言葉を繰り返す。無意識でいるため、自分の声が反響して聞こえ、そのことに気づく。

 「いいえ」とさげすむようにアグマハドが答える。「神殿の壁の外へ出て、民と入りまじり、彼らに私の意志を及ぼさねばなりません。そうするための支配力を求めます。それは私に約束されたのですが、まだ実現していません」

 「なぜならばそれを実現させる勇気と強さがそなたにはないからだ」

 「もうそうではありません」とアグマハドは答え、私は初めて彼の顔に情熱の炎を見る。

 「ならば、あの運命の言葉を唱えるがよい」と女神は言う。

 アグマハドの顔つきが変わる。少しの間、彼はじっと佇んで、顔は冷たさを増し、どんな彫刻よりも無表情な石の顔のようになる。

 「私は人間性を放棄します」とついに彼は、ゆっくりと運命を決する言葉を口にする。するとそれらの言葉は空中にとどまり、漂っているようだ。

 「よろしい。だがそなた一人だけではかなわぬ。そなたのように、すべてに勇敢になりすべてを知る用意のできている者たちを、連れて来なければならない。私には十二人の誓いを立てた奉仕者が必要なのだ。その者たちを連れて来るがよい、そなたはそなたの願望とともに」

 「その者たちは、私と同等でしょうか?」とアグマハドは尋ねる。

 「願望と勇気においては同等だ。力においては違う。それぞれが違った願望を持っているであろうからな。それゆえに彼らの奉仕は我が意にかなうであろう」

 アグマハドは一瞬、間をおいてから言う。「わが女神よ、御意のままに。ですがたいへん難しい任務なので助けが必要です。どうやって彼らを誘い込んだらよいのですか?」

 それを聞いて女神は、異様な身ぶりで手を結んだり開いたりしながら腕を振り回し、それが何を意味するかまるでわからない。その目は燃える石炭のようにきらめき、すぐに冷たく、暗くなる。

 「教えよう。わが指示をきちんと守れば、恐れる必要はない。私にだけ従うならば、そなたは成功するであろう。この神殿内にすべての要員(エレメント)がそろっている。十人の祭司が私たちに服従する準備ができているのだ。その者たちは渇望に満ちている。私のお気に入りとなろう。そなたは勇気とぐらつかなさを示して見せれば、私のお気に入りとなろう――その時までは他の者よりずっと多くを求められよう」

 「十二人という数を満たすには、もう一人必要ですが?」とアグマハド。

 再び私に女神の目が向けられる。

 「この子は私のもの――選ばれた、お気に入りの下僕。この子に教えよう、この子を通してそなたに教えよう」

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8章

 部屋へ戻って来ると、若い祭司たちが食事を運んで来る。まだ食べていなかったので空腹である。この食事は申し分ない。食事を運んで来た若い祭司たちは、片方だけひざまずいて給仕する。どうしてそうするのかわからず、不思議に思って見ている。彼らの多くは果物、濃い飲み物、見たこともない繊細な甘い菓子、花などを持って来ていた。とてもたくさんの花々が運んで来られ、私のそばに置かれる。花をいっぱいつけた低木が壁ぎわに置かれる。それを見て喜びの歓声を上げる。同時に、アグマハドがカーテンの陰に立っているのに気づく。彼の目は私を見、冷たく奇妙に微笑む。でももう彼が怖くはない。新たな喜びの心に満たされ、その心は私を強くしたのだ。花々に口づけしながら、花から花へあちこち移動する。花々の香りは部屋じゅうに満ち、濃厚に香る。うれしく、そして誇らしく思う。大理石に塗り込められたように動かず立っているこの冷たい祭司が、もはや怖れることもないと感じるからだ。この大胆不敵の感覚が私の幼い魂から重い苦しみの荷を下ろしてくれた。

 彼はくるりと背を向け去って行く。彼がカーテンの下を向こうへ去ると同時にあの子が私の横にいるのがわかる。

 「ごらんなさい、すごい花でしょう」とあの子が言う。

 「君が持ってきたの?」と驚いて聞く。

 「そう。みんなに、あなたが花を好きだって言ったの。丈夫でよい香りよ。地に生えているの。疲れていないんだったら、外へ出て遊ばない? 知ってる? あの庭園は私たちのもので、ボールもそこにあるのよ。誰か一人はあなたにボールをとっておいてくれてるわ」

 「教えて、なぜ今日は祭司たちは僕にひざまずくのかな」と私は聞く。

 「知らないの?」と彼女。もの珍しそうに私を見ながら言う。「それはあなたが今日、玉座から教えたからよ。その知恵の言葉があの人たちにはわかるけど私たちにはわからないの。でもあなたがすごいごほうびをもらうのを見たわ。これから全部のごほうびをもらうでしょうね」

 私は寝台の上に座り、頭をかかえ込んで、驚嘆したまま彼女を見る。

 「でも自分で知らないうちにどうしてそんなことができるの?」

 「じたばたしないでいればあなたは偉くなれるでしょう。それから知らないでしょうけど全部のごほうびを手に入れるでしょう。静かに、幸せにしていれば、祭司全員からあがめられるわよ。一番すばらしい祭司からもね」

 一瞬、驚きのあまり言葉を失う。それから言う──。

 「君はとても小さいのに、どうして全部知ってるの?」

 笑いながら彼女は言う。「花たちが教えてくれたの。花たちはあなたのお友達よ。私の言ったことは全部、本当よ。さあ、遊びに行きましょう」

 「まだ、待って」と私は答える。頭が熱くて重く、心は彼女の言うことが理解できず、いぶかる思いでいっぱいだ。

 「僕が玉座から教えたなんて、ありえないよ」と言う。

 「教えてたよ! 高位の祭司たちがあなたに厳粛な顔をしておじぎをしてた。あなたが未知の儀式のとりおこない方をあの人たちに教えたからなの。その儀式にはあなたも出ることになってるわ」

 「僕が!」

 「そう。あの人たちに、あなたが儀式で着る服はどうするか、どうやってそれを用意するか、唱える言葉は何かを教えてたわ、あなたが言ったとおりに繰り返してた」

 強い興味をおぼえ彼女を見る。「それでどうしたのか、もっと教えて」と、さらにうながす。

 「あなたはこの世に養われた花々の中で生きることになってるのよ、そしてちょくちょく子供たちと踊るの。もっとたくさん教えてあげることがあったけど、儀式のことは思い出せないわ。でもすぐわかるでしょう。それ今夜だから」

 突然、恐怖に取り乱して寝床から飛び出る。

 「怖がらないで。私がいっしょにいてあげるから。喜んでそうするわ、だって私、神殿の子だから。でもまだ秘密の儀式に出るのを許可されたことがないんだけど」と彼女は笑って言う。

 「君、神殿の子なんだ。でも君の声をみんなは聞こえないよ!」

 「時々、あの人たちは私が見えるの。アグマハドだけはいつも私が見えるの。私、アグマハドのものだから。でも私と話はできないの。私、あなたと話ができるからあなたが好きよ。さあ、外へ行って遊びましょう。庭園の花はこの部屋の花と同じくらいすてきで、ボールもあるよ。さあ、行こう」

 彼女は私の手を取り、静かに出て行く。物思いにふけって、ただ導かれるままについて行く。外の空気は豊かでさわやかだ。花々は生き生きとして、日の光が暖かい。すぐに幸福感で物思いなど忘れてしまう。

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7章

 目が覚めると白い睡蓮の花が手の中にある。その美しさに心は喜びでいっぱいになる。見ると元気づけられ、満足する。あたかも母の腕の中で眠ったかのようで、その花を持つと半ば茶色くなったその花が口もとに近くなり、母がキスしてくれたようだった。どうやってこれを手に入れたのかは不思議ではない。ただその美しさを見て幸せなだけだ。その花は、たった一人の友だちである女神が本当に守ってくれたことを教えてくれるのだから。

 不意に誰かが部屋に入って来る。女の子のようだ。入って来ると言うより、影から出て来るかのように見えた。その子を見つつ寝床に横たわっている。アグマハドが私をこの寝台に運んだのだ。夜の暗い時間帯をどこで、いかにして過ごしたのかほとんどわからないが、私をここまで運んで来たのはアグマハドだと感じた。再びここへ戻って来て良かった。そして私に近づいて来たこの子に会えて嬉しい。女の子は私より幼い。そして日の光のように明るい。近くまで来て立ち止まる。私はその子に手を差し出す。

 「その花をちょうだい」と彼女は言う。

 私はためらう。この花を持っていることで幸せだったが、断ることができない。その微笑みのためと、神殿の中の誰一人としてこれまで私に微笑みかけてくれたことなどなかったためだ。花を渡す。

 「わぁ!」彼女は叫ぶ。「葉っぱに水がついてる!」そして嫌そうに花を放り出す。私は怒って寝台から飛び出し、急いで大切な花を拾おうとする。その子は急にまたそれをひったくると、大声で笑いながら逃げる。全速力で追いかける私。まだ幼い少年にすぎず、怒って断固として負けるまいと追いかけるところも幼さ丸出しだった。私たちは誰もいない大きな部屋部屋を疾走して行く。その子は大きいカーテンを矢のように駆け抜け、私は田舎の少年のすばやさで追いかける。しかし突然、硬い石の壁とおぼしきものに行き当たる。彼女はどうして私から逃げおおせることができたのだろう? すぐ後ろに私が迫っていたのに。激しい怒りの感情で盲目と化し、引き返す。ところが急に黙り込むこととなった。アグマハド祭司が前に立っているのだ。何か悪いことをしただろうか? あり得ない、アグマハドが微笑んでいる。

 「ついておいで」と彼は言う。その言い方がとても優しいので、ついて行くのも怖くない。彼は扉を開く。目の前にあふれんばかりの花の庭園が広がる。生垣で四角く囲まれ、あふれんばかりの花で埋めつくされたこの庭園に、大勢の子供たちが皆あらん限りの速さで走り回っている。私の知らない、複雑な競技のようなものをしているようである。子供たちの数は相当なもので、大変すばやく動いており、始めはとまどったが、ふと子供たちの中に私のあの花を持っている子が見えた。それを服に付けており、私を見てからかうように微笑む。ただちに私は大勢の中へ飛び込む。そしてどういうわけか、すぐにその競技とも踊りともつかぬもののルールに従っているのだった。それが何なのか、まるで知らない。大勢の中で間違わずに動いているが、彼らが何を目標に追いかけているかわからない。あの女の子の姿を目で追い、後を追いかける。とても速くて近づけないが、すぐに私はその競技の動きと騒ぎと陽気な顔また顔と笑い声を楽しんでいる。無数の花の香りにうれしくなり、いくつか花が欲しいと熱烈に思う。これらの花のことを考えて、睡蓮の花のことを忘れてしまった。踊りの輪の迷路を急いで行きながら、踊りが終わったら大輪の花々を手に入れようと心に誓う。たった今、アグマハドもアグマハドの機嫌も恐れていない。たとえこの庭園が彼のものであったとしてもだ。そして突然、百人もの子供たちの楽しげな叫び声がする。

 「あの子が勝った! あの子が勝った!」

 それはボールだった。金色の軽い、とても軽いボールを、遠く空高く私は投げることができた。だが何度空へ投げても高く掲げた手に戻ってくる。他の子供たちの歓声を聞いた時、足元にボールがあるのに気がつく。ただちにボールは私の手中にあるのを知る。近くには今、睡蓮の花を奪ったあの子しかいない。今は睡蓮は彼女の服に付いてはおらず、私ももう忘れている。彼女は微笑み、私も笑い返す。彼女へボールを放る。彼女が投げ返す。庭園の向こうの端からこちらの端へと。

 ふいに澄んだ大きな鐘の音が大気中に鳴り響く。「行きましょう」と彼女。「学校が始まる時間よ、さあ早く」私の手をつかみ、ボールを投げ捨てる。もの欲しそうに目でボールを追う。

 「せっかく僕が取ったのに」

 「もうそれどころじゃないの。別の競技があるのよ」

 手に手を取って走って行く。別の庭園を通って、前に見たことのない大部屋へ入る。さっき一緒に遊んだ子供たちはその部屋にいた。しかももっと大勢になっている。この部屋の空気は重く、気持ちがよい。長い眠りから覚めたばかりだったし、まだ朝が来たばかりだったので私は疲れていなかったが、この部屋に入って来ると疲れを感じ、頭が熱い。

 周りに子供たちの声を聞きながら、すぐに眠ってしまう。目覚めると庭園で聞いた時と同じ叫び声がしている。「あの子が勝った! あの子が勝った!」

 玉座のような所に立つ。――高くそびえる大理石の台座に。そして自分の声が空中に聞こえる。私は話している。子供たちは周りにいる。群がって大理石の台座を取り巻いている。かつてここに連れて来てくれた子が、師がこの台座に立つのだと言っていたのを思い出す。ではなぜここに、我々のような子供がいるのだろう? 見回すと、何とこの部屋は祭司たちでいっぱいだ! 祭司たちは教わる場所に立っている。静かに、動かずに。再び子供たちの叫び声がする。「あの子が勝った! あの子が勝った!」なぜか急に心が乱れて玉座から飛び降りる。下に降り立つと子供たちはもういない。一人も子供は見えないが、私をここに連れてきたあの子だけが見える。あの子は玉座の上に立っており、大はしゃぎで手をたたき笑う。何がそんなにうれしいんだろうと思い、下を見下ろすと、私は白い衣の祭司たちの輪の中に立っている。彼らは額が地につくほどに深くひれ伏している。これはどういう意味なのだろう? わからない。恐怖の中、じっと立ったままでいると、まるで私の思いを読んで答えるかのようにあの子がふいに声を上げる。「あの人たち、あなたを崇拝しているわよ!」

 その言葉よりもっと不思議な別の驚きが降って湧いた。何と彼女の声は私にしか聞こえていないのである。

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6章

 「何かお望みかな?」男ははっきりと、しかし低い声で言う。

 驚いて彼を見る。服からして修道士のようだが、私の望みを満たせるかのように言っている――そしてただの召使いのような話し方ではない。

 「食事はしたところなの。何も望みはないよ――この部屋を自由に出ること以外は」

 「それなら」男は素早く答える。「お安い御用。さあこちらへ」

 驚いて彼を見つめる。この修道士は私が外へ出られない状況を知っているはずだ――それに関するアグマハドの意思も。あえてアグマハドに逆らうというのか?

 「だめだよ。高位の祭司にここへ閉じ込められているんだよ。抜け出したら罰を受けるよ」

 「こちらへ!」としか彼は言わない。そう言いながら何かの合図のように片方の手を上げる。肉体の痛みに私は大声で叫ぶ。なぜなのかわからない。感覚が邪悪なものに捕まってしまったようだ――ある種の抑えられない力が体をつかんで揺らす。一秒後、私は謎めいた訪問者の横に立っている。手はしっかりと握られている。「振り返るな!」大きい声で彼は言う。「一緒に、こちらへ」

 後について行く。でも扉のところで振り向いてみたくなる。大いに力をふりしぼり、私は振り返る。

 振り返るな、だなんて少し不思議だ。彼が私を急いで部屋から連れ出そうと懸命なのも不思議だ。目をひとたびそちらへ向けると、魔法にかかったようにそのままになる――彼が鉄のようにしっかりつかむ手に抵抗しながら。

 そこに見たのだ、私自身を――私自身の無意識の姿と言おうか――そして初めて、この同行者がこの世の住人ではないとわかった。再び影の領域に入り込んだのだ。

 だがこの驚くべきことは、もっと大きな別の驚異に完全にのみこまれ、消えてしまった。――その同行者が部屋から私を連れ出そうとすることに反抗できるほど強くなるような出来事だ。

 睡蓮の女神がいたのだ。寝台にもたれかかりながらその後ろに立ち、あの最初に水を飲む姿を見た時のように前かがみになっているのだ。

 そして女神の話す声がする。その声は水のしたたり――湧き出る水のしぶきのように聞こえる。

 「起きなさい、眠れる者よ――もう夢を見るのも、この呪われた魔法の中にいるのもおしまいです」

 「女神さま、そうします」と心の中でつぶやく。すぐに私は霧につつまれたように感じる。かすかに意識はある。――知っているのだ、自分が美しい女神の望み通りにすることで自然な状態に戻ろうとしていることを。徐々に私は現実に戻る。そして人のいない空っぽの部屋を見るために、うんざりと重いまぶたを開く。謎の修道士はうれしいことに去ってしまった。しかし、何ということだろう! 睡蓮の女神も私を残して去ってしまった。本当に部屋は空っぽだと感じる。空っぽの部屋を見回して心は重苦しい。優しい花の女神を、女神というよりもむしろ子供の心で、美しい母のように感じていた。その優しい風貌を恋い慕う。でもそこにいない。ただもう私から隠れてこの部屋にはいないことを知り過ぎるくらい知るしかない。彼女がいないことを魂で知り、さらに目でも悟らされる。

 体を起こすのがけだるい。先ほどの奮闘で十分疲れた。部屋のすみの、最愛の花を隠してある寝台の向こう側へ行く。わずかにカーテンを引き宝物を見ると、ああ、もう愛らしい花はしおれてしまっている。立ち上がり、確かに水をあげたはずだよね、と自分に言って聞かせる。確かに茎は低い方のエレメントである水に深く差してある。でも花は死んだようにうなだれて、壺のふちの上にぐったりと曲がっている。

 傍らにひざまずき嘆く。「花よ、あなたも行ってしまったの? ――僕は完全に独りぼっちなの?」

 壺から、ものうげにうなだれた花を取り、服の中の胸の部分にしまう。そして今は完全な悲しみとともに寝床にふたたび倒れ込み、目を閉じて視界を真っ暗にし、幻を見ないように努める。

 でもどうやって? 内なる目からビジョンを隠す方法を誰が知っていよう。内なる目はどんな闇にも見えなくされない視力をもつ恐ろしい賜物なのだ。何をどうやっても見えなくすることはできない。

 長く静かな眠りから目覚めた時、もう夜が地上に降り立っていた。外には月が光り、その銀白色の光の筋が高窓を通って部屋の中へ差し込んでいる。室内の光の筋が白い衣の裾を照らす。金色で刺繍された裾を。見知った刺繍だ――私はゆっくりと視線を上げる。きっとそこにアグマハドがいるのだろう。果たしてそこに彼はいた。彼はちょうどほの暗い影の中に立っている。だが顔は見えなくてもその姿は他の人と容易に間違わない。

 まったく動かないで横たわっている。それなのに彼には私が目覚めたことがすぐにわかったらしい。

 「立つがよい」と彼は言い、それに従う。寝床の横に下り立ち、怖さのあまり大きく見開いた目で彼を見据える。

 「それを飲みなさい」と彼。横を見ると赤い液体がなみなみとつがれたカップが置いてある。それを私は飲む。やみくもに、この飲み物が今夜の沈黙の時間に私にもたらされる運命であるどんな試練にも耐える強さをくれることを願いながら。「来なさい」とアグマハドは言い、後について扉へと向かう。外の新鮮な空気と自由にこの先ありつけるかな、と思い半分無意識に窓を見上げる。突然、目を見えなくされたようだ。急いで目に手を当てる。柔らかい布を巻かれ目隠しされている。驚きと恐怖で黙り込む。体を支えられ、慎重に前へ導かれているのを感じる。支える手がアグマハドのものに違いないと思い震えてしまうが、抵抗するには無力であり、おとなしく触れられるままにしている。

 ゆっくりと一同は前へ進む。私の部屋を出て左へ行ったり右へ行ったりしながら相当の距離をやって来た。だがどのくらい、どちらの方向へ来たのか推測できない。目隠しされた状態で当惑したままだ。

 一行はまったくの沈黙の中、立ち止まる。周りから私を支える腕は取り払われ、目隠しが外されるのがわかる。そこに見えるのはまったくの暗闇なので、まだ目隠しの布が巻いたままなのか確かめるため、手で顔をさわる。ない。――目隠しは取り除かれた――目は開いている――でも、ただ深く完全な闇のうつろな壁を見つめるだけである。頭痛とめまいでフラフラする。さっき飲んだあの濃い飲み物の匂いが頭を混乱させているようだ。じっとしたまま、意識がもとにもどり自分の居場所がわかるよう願う。

 そうして待つ間、不意にそばに寄り添う別の存在がいるのに気がつく。私は避けはしない。その存在の美しさと輝かしいようすを知っているような気がしたのだ。その見知らぬ存在を魂が好む言葉にならない感じ、あこがれに心がはずむ。

 沈黙のただ中、ふいに快い低い声が耳のすぐ近くに聞こえてくる。

 「アグマハドに言うがよい、規則にそむいていると。祭司は一人だけが至聖所に入ってよい。それ以上はもう入ってはならぬ」

 その水の流れるような声は睡蓮の女神のものだと私は思う。そこに祭司がいるのかどうかも知らないが、迷わず女神の言う通りにする。

 「祭司は一人だけが至聖所に入ってよい」私は続けて言う、「それ以上はもう入ってはならぬ。そしてここにいるアグマハドは規則にそむいている」

 重々しい口調でアグマハドが返事する。「女神のお言葉を私がぜひお聞きしたいです」

 「彼に言うがよい」女神の声は私の魂を恐怖でゾクッとさせ、体が震える。「彼の前にわが姿を現すことができるならば、ここで待っていたりはしなかった、と」

 女神の言葉をそのまま伝える。アグマハドの返事はなく、動く音がする。――足音だ――そして扉がそっと閉まった。その時、柔らかい手が私に触れ、それと同時にかすかな光を胸に感じる。すぐにその手は、先ほど胸に隠した蓮の花のような気がして、服の中からしおれた花を引き出そうと手を入れる。でもすぐにその無用な試みはやめた。目を魅了する光に顔を上げると、そこに睡蓮の女神が立っている。私の幼い心で女神を呼び始めると、かすかな霧に包まれたような、ぼんやりとしたその方の姿を見る。だがそこにいることを喜ぶほどはっきりとは見えない。彼女が胸のあたりでしおれた花を手に持っているのが見える。それは私から取ったのだ。さらに驚いた。花はもっとしおれ、くすんで、完全に枯れているのだ。しかし残念ではない。花が枯れてゆくにつれ、女神はより輝かしく、目にはっきり見えるようになってきたからだ。花が完全に枯れ果てた時、彼女は私のとなりに立つ。自らの光に照らされて、はっきり見える明瞭な姿で。

 「もう恐れなくてよいのですよ。あの者たちはあなたに危害を加えられません。あなたは私の領域の中にいるのだから。たとえ彼らがあなたを偽りと悪の牢屋に入れようとも、恐れなさるな。そしてすべてのことを観察し、見るものすべてを憶えておきなさいね」と女神は言う。

 闇は彼女の自信に満ちた優雅な言葉で照らされ、明るくなっている。私は勇気が出て、力に満たされる。

 彼女は手を伸ばして私に優しく触れる。すると私は輝きに満たされる。これまで経験したどんな光輝よりも温かい輝きだ。

 「エジプトのすばらしい花、睡蓮は聖なる水に住んでいます。その水は清らかで静寂な中に、ちょうどよく永遠の休息所を作り出しています。私は花の聖霊です。真理の水に生かされています。そして我が命は天界の息すなわち愛で作られているのです。でも私の愛の翼が今もなお卵を抱いているこの世の休息所は退廃し、叡智なる天界の光がそこから追い出されているのです。堂々たる睡蓮の聖霊は闇の中では長く生きられません。太陽が沈んでしまえば花はしおれ、死にます。私の言ったことを憶えておきなさい、我が子よ、心に刻みつけるのです。あなたの心がそれらを理解できるようになるにつれて、それらはあなたに多くのことを教えるでしょう」

 私は言う。「教えてください。僕がまた蓮のところへ行けるのはいつでしょうか? 明日、太陽の光の中に一緒に連れて行ってくれませんか? 今は夜だし、僕は疲れているので。あなたの足もとで眠ってもいいですか、そして明日になったら庭園へ連れて行ってくれますか?」

 「かわいそうな子」と彼女は言いながら私へ向かって身をかがめ、その息がかかる。彼女の息は野の花のように甘く香る。「あの者たちはどれだけあなたにむごいことを強いていることでしょう! この腕で休みなさい。あなたは私の透視能力者で、我が愛の国を啓蒙する人なのだから。強さと健やかさが宝石のようにあなたの表情に宿るように。見守ってあげましょう、お休み、我が子よ」

 言われるままに眠りにつく。冷たく堅い床(ゆか)の上なのに、頭部は柔らかい腕に落ち着き、深く、夢のない、乱されぬ眠りに落ちる。

 

 *     *     *

 

 アグマハドの所有する書物の一つに秘密の記録がある。その晩はつぎのように一言だけ記された――「失敗」。

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