睡蓮の牧歌

古代エジプトが舞台の物語。メイベル・コリンズの手による象徴的なお話です。

4章

 川の両岸に大群衆が、はっきりと見える。彼らにわからない光が降り注いでいるからだ。それは彼らの見ている星明かりとは違う、天国からではない私の目から生じた光の明るさなのだ。私には彼らの心が見えるーー体ではなく、彼ら自身が見える。私の従者たちがそこにいるのがわかる。私の魂は高く昇り、この群衆のほぼ全員が私に仕えようとしているのを知る。従者たちは尊いわが軍隊だ。義務ではなく願望により従うだろう。

 それぞれのハートに、渇望が見える。私がそれを満足させることができるのはわかっている。この長い一瞬に見続け、それから選んだ従者たちを離れる。彼らに川岸へ引っ張って行くよう指示する。もう彼らの鈍い目に私が見えるように心を集中させていない今は、選んだ別の人たちに話しかけ、触れることができる。若い祭司の力強い生命は、あまりにも私がそれを早く使い切ってしまわない限りは、しばらくの間、肉体の力のランプを燃やすのに十分である。

 私は川岸を急ぎ人々に交わり、それぞれの耳にその人の秘密をささやくーーと言うよりも、口にせず思っているだけの願い事を、いかにして手に入れるかをささやく。どの男性も女性も、強い願望を持っている。もしそれを聴罪の祭司にさえ告白したなら、永遠に恥辱を持つであろうことだ。しかし私はそれを知って、恥ずかしがることはないとし、いかに少しの意志の力で、いかにわずかな知識だけで、自己の欲望を満足させることへの第一歩を踏み出せるかを示す。すべての人だかりの中を、あちらこちらに行き、熱狂し情熱に駆られる群衆を次々と後にする。ついに私の出現が引き起こした興奮状態は、もはや抑えられなくなった。人々から一斉に激しい歌がわき起こり、その歌が私の血をゾクゾクさせ、燃え立たせる。他の空の下で、この歌を私は聴かなかっただろうか。あらゆる民族の声と言葉で歌われるこの歌を。死に絶え、忘れ去られた諸国民の、熱望の歌を。まだ居住の地のない民族から、聴かないことがあろうか。これは私の歌だ! 私に命を与える歌だ! 人の心の中で無言で語られるその歌は、暗黙の情熱、自我の隠された熱狂なのだ。群衆の喉もとから発せられる時、恥じらいは消え去り、隠し立てもなくなる。それから激情の発語はオルガンの響きとなり、信奉者たちの喜びの叫び声となる。

 すべきことは済んだ。山火事のように燃え上がる大火を、私は放ったのだ。私を待つ祭りの船に戻る。選ばれたしもべである神殿の高位の祭司たちは、動かずにそこに立ち、私の戻って来るのを待っていた。ああ、愛欲の偉人、情欲の王、欲望の君主たちよ!

 そしてあの若い祭司はーーまだそこにいるだろうか? まだ死んだままだろうか? そう、彼はじっと動かぬまま、青ざめて、高位の祭司たちの輪の真ん中で、独り中央に立つアグマハドの足もとに倒れている。

 この考えが浮かんだ時、急に不思議な方法で、私自身が潜水していた情欲の大海から自分を引き離したように思われた。再び自分がわかる私に戻ったーー私は黒の女神ではなく、黒の女神に染み込まれ、その自我に包み込まれて、うまいこと使われていたにすぎない。今や再び黒の女神から離れた。だが祭りの船の甲板に、死んだように横たわっている青白い顔の姿に戻らなかった。私は神殿にいる。闇の中。至聖所にいることがわかっている。

 闇の中、光が差す。見ると、ほら! 洞窟の中は光でいっぱいだ。そして光の中に、白い蓮の女神が立っている。

 私は至聖所内の洞窟の入口に立っている。白い女神がそばにいる。その輝く目の中に私が映っている。逃げ出そうとするーー背を向け逃げようとするが、できない。震えが来る。恐怖や不安でさえ私をこれほど震え上がらせたことは、かつてなかった。

 白い蓮の女神は無言で立ち、目は私に向けられている。その目に大きな怒りが表れている。かつては私の優しい友だった、優しい母のように愛に満ちていた白の女神が、今私の前に威厳とともに立ち、私は自分が人間の知ることすべての中で最もひどいことで彼女を怒らせたことがわかるのだった。

 「このようなことをするために、あなたは生まれて来たのですか? ああセンサ! 神々の最愛の者よ。このようなことをするために、あなたの目は見え、感覚は明白に感知できるのですか? そうではないことは、わかっているでしょう。その見る目と素早い感覚は最後に持ち主に仕え、あなたが何に、そして誰に奉仕しているのかを示しました。ずっと彼女に奉仕するつもりですか? あなたはもう成人なのです、選びなさい! 低い下層へと落ちて永遠の奴隷となるのですか? それなら行ってしまうがいい! 私は至聖所を浄化するために来ました。もうこれ以上は我慢できません。至聖所は静まり返るでしょう。そして人々はどの神の存在も知らなくなるでしょう。偽りの口に嘘をつかれ、暗黒に誘惑されるよりはむしろそのほうがいいのです。お行き! もうここへは誰も入れません。私は扉を閉ざします! 至聖所の中は音がなくなり、声は消えます。私は一人、黙って座っていましょう。そうです、幾時代にもわたり私はここに無言で住まうでしょう、そして人々は私が死んだと言うでしょう。そうなればいい! 時が来れば再び私の子供たちの時代になるでしょう。そして暗黒は打ち破られるでしょう。ああ、選ばれしそなた!落ちて行けばいい! あなたの身分は失われたのです。出てお行き!」

 白の女神は手を上げるしぐさで私に出て行くよう命じる。女王たる女神の威厳に、従うほかない。うなだれて、外側の扉へと悲しみの一歩一歩を進める。だが出て行こうとすると扉が開かない。私は出て行くことができず、ここからどこへも行かれないのだ。ハートは悲観にくれて、私を引き止めた。ひざまずき、もがき苦しんで叫ぶ。「母よ、母なる女神よ!」

 厳粛な沈黙の中、一瞬の時間は過ぎ、私は何を待っているのかわからずに待つ。我が魂は飢え、絶望している。すさまじい記憶が闇と静けさの中、浮かび来る。過去の喜びだけでなく、行為が見える。それらの行為を私が盲目的に行なったのが見える。ワインで愚鈍になった人のように、我が魂を麻痺させられるがままになって。そして茫然と与えられた仕事をし、そのことを考えもせず、見返りも喜びもなかった。私はあの黒い魂、今や私にも誰だったかわかる闇の女神の代弁者となり、神託を告げる媒体となっていたのだ。過去がとても恐ろしく、ありありと浮かんで来て、激しく私を責め立てるので、またも暗闇の中を叫ぶ。「母よ、助けてください!」

 何かが手と顔に触れる。耳とハートに声が聞こえる。「あなたは助かりました。強くあれ」目に光が差し込むが、見ることができない。涙の雨があふれ、これまでに見たすさまじい光景を洗い流すのだった。

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3章

 船が滑るように川を下っていると、急に深い沈黙を破って歌が聞こえる。船をこぐ祭司たちが歌っているのだ。すべての船から聖歌を歌う声がする。そして薄暗い中でも大きな動きが見える。人々がひざまずいたのだ。だが人々は黙っている。彼らは祭司たちの歌う声が空中に響き渡る間、香の匂いを嗅ぎ、歌を聴いている。

 歌がやむと、何ものも破らぬ沈黙の時間が数分続く。人々は動かず、ひざまずいたまま黙っている。そして急に、地にひれ伏す。群衆のため息が、深い畏怖のため息が、聞こえる。祭司たちが突如、こう叫んだからだ。それは勝利の旋律の叫びで、はっきりと強く言われた。

 「女神は我々とともにおられる! 女神は我々の間におられる! 人々よ、平伏して拝むがよい!」

 この時、私とアグマハド祭司との間に立っているあの姿がこちらを向き、私に微笑みかける。

 女神が言う。「さあ、私が選んだしもべよ。そなたに奉仕してもらわねばなりません。あらかじめ言っておくので、そなたはためらわずにすむでしょう。怖がりなさるな。後で再び、今の二倍のなぐさめを得よう。さあ、手をお出し。私の額に口づけしなさい。怖がらず、動かず、叫んだりしてはなりません。たとえどんなに気分が悪くなろうと、どんなに震えが来ようとも、です。そなたの命は私のものになるでしょう。わたしがそなたから、それを引き抜くのです。でもまた戻しましょう。貴いことではないか? 恐れてはなりません」

 私はためらわずに、しかし考えられないような恐れを持って従う。私自身が女神の奴隷となるのはわかったが、女神の意志に抵抗はできない。冷たいその手が私の手をぎゅっと握り、すぐに柔らかい手ではなくなり、鋼鉄の鋲となって、冷酷にしっかりつかまれるように思われる。無力な感じに駆られ、私は思いきってそのギラギラ光る目を見る。そばへ引き寄せられる。自分を解放するために私は死を望んだが、誰かの手助けを望めない。唇を女神の額に当てる。ランプと船から気体がゆらゆら立ちのぼり、頭の中が異様な眠さでたまらなくなって、どんよりと重い。でも今、唇が女神の額に触れたが、冷たいか熱いかわからない。私は喜びに気がふれて、陽気に狂乱し、嬉しさにほとんど正気でなくなった。もう私が私ではなくなったのがわかった。私のものではない感情の海の波に揺さぶられ、支配されている。感情の波は私に押し寄せ、その急な襲来が私の人格を完全に洗い流してしまったようだ。そしてもう永遠にこのままのように思われる。しかし私はまだ意識を失っていない。私の意識は刻々と発展し、より強烈になり、より覚醒した。それから不思議な一瞬のうちに、人格我を失ったことを忘れた。頭の中で、ハートの中で、私を完全に統治している存在の本質の中で、私は生きているとわかった。激しい泣き叫びの声が、人々からわき起こる合図で即座に静まる。彼らは女神を見たのだ。私は足元に、若い祭司の死んだように見える姿が倒れているのを見ている。白い服を着て、それには金色の刺繍がしてある。一瞬、躊躇する。力強い喜びの中で思う。この人は死んだのだろうか?

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『睡蓮の牧歌』はどのようにして書かれたか

『睡蓮の牧歌』はメイベル・コリンズにより書かれましたが、書いた時の状況について著者は、『センサの物語』という題の解説の中で、次のように言っています。(以下、本文より一部抜粋)

 

ーーー

 

『睡蓮の牧歌』の中で不思議な、神秘的な技法で描かれたセンサの物語は、三つの話を含んでいる。三つの話は、三つの小葉を持つクローバーのように、それぞれが別個だが、本質そのものは切り離すことができずつながっている。それらは分けられないが別個のものと考えられ、一つ一つの物語が私たちの内部の人間性の最奥部に訴えかける、なにやら力強いものを含んでいる。『睡蓮の牧歌』をひとたび読み、その中に神秘的なベールの一部を見抜いたオカルティズムの学徒は、それから離れられないし忘れられない。それはその人自身の物語と関連があり、その人自身の魂の悲劇と最終的な神格化であり、故にその人自身の本質的な一部分だからである。

『睡蓮の牧歌』を私は評論家として、学徒として書いたのであり、決して著者として書いたのではない。というのも私はただ、神秘的な普遍的言語で語られたことを人間の言葉で紙の上に書き出しただけなのだ。その時、私の人格は南インドのオカルティストに「スワプナ」として知られている状態……英語であいまいに「夢遊病の透視力」と翻訳されている……だった。1878年、私は書きもの机でしょっちゅう執筆に没頭していた。その仕事部屋の窓からはクレオパトラの針(*1)が見えた。それは川を運ばれて来てエンバンクメント(*2)に立てられたのだった。その頃から、威厳あるエジプトの祭司たちの行列が私の部屋に入って来るようになった。行列は階段を上ってドアから入り、机の周りに立った。最初それはクレオパトラの針と関係のあるアストラル形体が出現したものだと思った。だがその不可思議な訪問は止むことなく、ついに大きな影響力となった。それらはもしアストラル形体だったとしたら、彼らの属する自我(エゴ)たちに活気づけられ、誘導されたのだったろうが、実はある古代エジプトの祭司たちの「カー」(*3)だったのだ。生前、霊的な生活を送った人のアストラル形体または「カー」は、注意深く加工保存され保護されれば、偉大な人の自我(エゴ)の大きな目的のために使われることが可能であることを、宗教的なエジプト人たちは理解していたということは、もちろん周知の事実である。その上、「カー」またはアストラル形体は物質次元の出来事に関する情報をデヴァチャンにいる自我(エゴ)に知らせる目的で存在するとされてきた。この物語を書いていた時に起こったことはそれだと思われる。時間になると自我(エゴ)はなすべきことをするためにやって来て、私自身の内的自我(エゴ)を目覚めさせ、私自身は離れたところからメッセージを受け取り、机上の紙にそれを書き留めた。その間、私の頭脳から思考の本質を引っぱってきた。したがって、物語は高次の意識からより低い意識に、寸分たがわずそのまま伝えられた。古代エジプト人の「カー」は神智学徒の言う「アストラル形体」であり、心霊主義者の降霊術の会で言う「亡霊(スプーク)」であり、いつの時代もすべての国で「幽霊(ゴースト)」と言われるものである。エジプト人たちはそれを、世俗的で啓蒙されていない、無知な、人の一番低い肉体的欲望を持ったものと考える。彼らは肉体の墓に物品を閉じ込めて保管し、それで死者に気晴らしや楽しみごとを与えて、死者がさまよい歩いたり、あまり望ましくない楽しみごとをまだ探し求めることを防いだ。彼らエジプト人は死者がアストラル界で崩壊するままにしておくのではなく、そこにとどめておくための、手の込んだ儀式をおこなった。それは次のことのために為された。つまり高い世界での自我(エゴ)は未来に、この世で召使いが必要かもしれず、それを探し求めてやって来るのだ。そういうことは時々起こると信じられていた。もちろん祭司たちの魔術とあの世(死後の生)に関する知識は、このような関係を築き上げ、何世紀にもわたって保つのに十分と考えられた。『睡蓮の牧歌』を書く以前に私の部屋に入って来て机の周りに立った祭司たちの姿は、他の人たちには見えなかった。「目覚めている時の透視力」(ジャーグラト)がないと知覚できないのだ。しかしそれでも彼らはまぎれもない幽霊(ゴースト)であり、死者の亡霊だった。でも『睡蓮の牧歌』を書く仕事を企てたのは偉大なアデプトの自我(エゴ)であることは間違いないのと同じように、その仕事が実際に始まったちょうどその時、つまり私がより高い意識に呼ばれて行った際には、これらの幽霊のそれぞれがその真の自我あるいは霊的形態でそこに住んでいたということは十分あり得る。

これらの祭司たちは本の中の登場人物として出てきた祭司たちとは違う。混同しないよう、このことをはっきり述べる必要がある。センサの物語を世にもたらした祭司たちは、偉大な霊的宗教(先史時代からの「白魔術」である)の代表者たちで、もう一度その役割を演じ、一定のやり方で人の進化を促進させようとしている。

 物語の中で祭司たちは魔術師のようなもので、「黒魔術」をおこなう。

 魔術(magic)という語はかつての古代イランの言語(Zend)に由来する、もともと霊的な威厳ある語であることは、覚えておくべきであろう。その語は単に、賢人つまりマギの力と実践を意味する。ウォルター・バッジ教授はこう言う(*a)。「その用語が適切な意味で使われるならばだが、エジプトにおいて魔術の信仰は神への信仰よりも古くからある」「エジプトの魔術は王朝時代以前そして有史以前からあり、エジプトの住人たちは次のように信じていた。つまり空気中や空に目に見えるものも見えないものも無数の存在たちが住んでおり、友好的にあるいは敵対的にこの世と死者の国と人間に縛りつけられていた」。彼は、他の国々で知られている魔術は古代エジプトの「白魔術」と「黒魔術」から抜き出されたものであると指摘し、さらにこう言う。「他の国々の信仰と宗教の体系がどのくらいの数、それらに影響を受けているか、正確には言えないが、多くの異教徒およびキリスト教の異端派のある概念や宗教的思想は、それらから直接、影響を受けているかもしれない」。

 それは、最高のものがどんなふうに私たちの中にあるかを示し、私たちの知る最善のものの、おおもとのルーツが先史時代の昔のエジプトに謎につつまれて存在するという、回顧録の輝かしい側面なのである。

 大きく、暗く、陰鬱な影が同じ太古の源に起因し、光と闇は絶えず戦った。それ以来ずっと、それは世界中のすべての人の本質となっている。

 ウォーリス・バッジ教授は言う。「『人生の二重の家』(the double house of life)という叢書の中の教えに精通した人にとって、未来は過去と同じくらいよくわかり、距離も時間もそれを知ることを妨げられることはなかった。生と死の神秘がその人に明らかにされた。――さて、もしこのように魔術的な能力を古代エジプトの教養ある人たちが持っていたということが本当なら、次のことに気づいても不思議ではない。つまり、最も堕落した信仰と迷信が、華麗な階級によって、古代エジプトの無学な人や労働者階級に広まったことをである。――このような人々が求めるので、魔術師そして後の時代の祭司は、主として感覚に強く働きかける野外劇(ページェント)や儀式が必要であることがわかった。――この魔術は妖術(ソーサリー)、悪霊学(デモノロジー)、呪術(ウィッチクラフト)などに堕落し、これらの仲間になった者は、悪魔の仲間、闇の勢力の下僕、〔黒魔術(ブラック・アート)〕の人とみなされた」。このような環境がセンサの物語の舞台である。その物語の中で、無知な新参者が善と悪の力の戦いに突入していくことは、なんて現実そのものなのだろう、と読み手は感じる。バラモンの神智学徒スバ・ラウは『睡蓮の牧歌』についてこう言っている。「エジプトの信仰と聖職者たちを正確に描写しているが、すでに彼らの宗教が純粋さを失いはじめ、平気で黒魔術を利己的かつ非道な目的に使って、けがれて堕落したタントラ的崇拝の宗教へと退廃し始めていた頃の物語である」

 (『The Story of Sensa:An Interpretation of The Idyll of The White Lotus』より)

 

*1 クレオパトラの針:古代エジプトオベリスク。ロンドン、パリ、ニューヨークに移された。

 

*2 エンバンクメント:ロンドン市内のテムズ川沿いにある。

 

*3 カー:「魂」「精神」など諸説ある。ミイラ作りと密接に関係していたらしい。

2章

 この時から、私の人生の過ぎた日々ほどには正確に説明できない時を過ごすこととなる。それは私の経験した、感情に似たものに曇らされ、ベールで覆われたぼんやりとした時間だった。さらにそれらの感情は一つに合わさり、全く同一のものとなった。日々、快楽に耽溺した。私の美しい同居人が毎時間、より美しくなったように思われ、驚嘆して彼女の顔を見つめるのだった。彼女は大邸宅の部屋べやを通って私を連れ出し、私はそれらの豪華さを見るためにとどまることができなかった。行く部屋行く部屋がつねに、もっと豪華に見えたので、眺めたかったのだが。彼女とともに庭をブラついた。そこには馨しい花が、他所では見たこともないほどたくさん生えていた。庭の向こうは草原になっており、背の低いドジョウツナギが生え、花をたくさんつけている。小川に睡蓮が花開いている。小川は野原を通って流れ行く。夕方になるとここに街の娘たちがやって来て、水を汲んで行く者あり、流れで水浴びをする者あり、その後に川のほとりに腰かけて夜が半分過ぎるまでおしゃべりしたり笑ったり歌ったりしていた。娘たちのきらめく姿とかわいらしい声が夕暮れ時を二倍に美しくし、星空の下、私はそこに長居したものだったし、その最も美しい娘たち全員の恋人である夜明けが来て、恋人たちに愛の言葉をただ囁くしかできないでいる時間まで、そこにいたものだった。そして彼女たちが低い声で歌いながら私を置いて帰って行くと、私も自分自身の最も美しいあの人と一緒に家へ帰るのだった……私たちが住む街の真ん中の、でも街から隔たった邸宅へ。街の中で、この家の中ほど幸せだった場所はないのだから。

 こうしてどれくらいの日々が過ぎたのかわからない。わかるのはただ、ある日部屋で横たわり、とても美しい彼女は頭を私の腕に横たえ、低いきれいな声で歌っていたが、にわかに歌をやめ、じっとしたまま青ざめて黙り込んだということだ。静寂の中、ゆっくりと穏やかな足音が外の階段を上がって来るのが聞こえる。ドアは開き、そこに高位の祭司アグマハドが動かず立っている。

 彼は怖い目で私を一瞬だけじっと見る。まるで宝石のように冷たい目。彼の顔に微笑みが浮かぶ。私はおそれおののき、震える。

 「来たまえ」と彼は言う。

 ためらいもせず起き上がる。従わなければならないと知っていたのだ。私は振り返らない。素早く動く音とすすり泣きが聞こえ、振り返る。でも美しい彼女は、去ってしまっていた。この部屋での予期せぬ状況の前に、逃げてしまったのだろうか? わたしは会うためにそこにとどまることも、彼女をなぐさめに行くこともできない。アグマハドに従わなければならないとわかっている。まるで彼が私の師であると感じたことは、それまでなかったように思われる。ドアから外へ出ようとすると、戸口の向こうに蛇がいて、私に向かって頭をもたげている。恐怖の声をあげて後ろへ跳びのく。

 アグマハドは微笑む。「怖がるな。この蛇は女神のお気に入りだ。女神に選ばれたしもべには危害を加えぬ。さあ来られよ!」

 この命令に私は従わなければならないと感じる。あえて従わないでいることはできない。目をそむけつつ蛇の横を通る。階段のところまで来ると、それがシューシューという怒りの音をたてるのが聞こえる。

 アグマハドは庭園を通って向こうの草原へと進んで行く。夕暮れで、もう空に星が光っている。川のそばに集団で腰を下ろした娘たちの目も輝いている。だがいつものように彼女たちは歌っていない。川の中に小舟があり、二人の漕ぎ手が乗っている。その二人があの時私とこの街へ来た若い祭司たちであることがわかった。二人は目を伏せ、私が近付いても目を上げようとさえしない。少女たちを通り過ぎながら、私にはわかった。彼女たちはその二人の祭司を以前からの陽気な仲間とみなしているのだ。彼女たちは二人がこんな服を着て、いつもと違った態度でいることにびっくりし、不思議な気持ちでいっぱいのようだ。

 アグマハドは舟に乗り込む。私は後に続く。それから私たちは静かに舟を漕ぎ、神殿へと向かう。

 これまで私は一度も、水路からの神殿の入り口を見たことがなかった。かつて母とこの街へ来た時に、この入り口は昔はよく使われていたけれど、もう祭りの時のために取っておかれているのみだ、と聞いたので、今そこから入って行くのは驚きである。でももっと驚くことに、神殿の敷地内は花を飾った舟で埋めつくされ、目を伏せて座る白い服の祭司たちで占められているのが見える。すぐに今日が祭りの日だと気づく。

 この神殿! ここに百年間住んでいたような気がする。アグマハドその人は、馴染みがなくよく知らない感じがする。私は本当にとても年をとったのだろうか? わからない。顔を映して見る鏡もないし、尋ねる友もいない。わかるのは、冒険を強く望んで神殿の庭園から逃げ出した若い頃と比べて、今の私は成人だということだ。そして、私の成人らしさは栄誉ではなく恥辱とともに達せられたとわかっている。私は奴隷だ。神殿に入った時、私の魂に深い闇が定着したのだ。船はいくつかある白い大理石でできた幅広の階段のところへ引き寄せられる。その階段は神殿の壁の内側、屋根の真下にある。この大きな川が、これほど神殿の近くにあったとは、私は知らなかった。階段の最上段に着くと、アグマハドは扉を開ける。すると、見よ! すぐそこに至聖所の入り口があるではないか。沈黙している祭司たちの持つ、わずかな数のほのたいまつがほのかに光り、大きな廊下を照らす。外の川は薄暮の中にある。だがここは真夜中のようだ。アグマハドの合図でたいまつが消される。しかし、すべての明かりが消えたわけではない! 至聖所の扉の輪郭を浮き上がらせ、あの光…かつて私をぞっとさせたあの奇妙な光が放っている。今はもうその光は私をぞっとさせない。そうすべきでないと自分でわかっている。そして、ためらわず、恐れもなく、私は前へ進み扉を開けて中へ入る。

 中には黒いものが立っている。輝くローブをまとった、目が冷たく恐ろしい、その姿が。女神は微笑む。そして手を差し出し、私の手に置く。その手がとても冷たくて、思わず身震いする。

 女神は言う。「アグマハドに言うがよい、私は来るだろうと。私はそなたのそばに座ろう。アグマハドは我々とともに真ん中に立ち、他のわがしもべたちは我々を取り囲むのだ。そして指示する通りにすべてが済んだら、私は全祭司と人々の前で奇跡を行うだろう。私はしもべたちに大変満足している。そしてその者たちに権力と富を与えたいのだ。だからそのようにするのです」

 私は女神の言ったことを繰り返す。言い終わると、暗闇の中からアグマハドの声がする。

 「女神よ、ようこそおいでくださった! お言葉に従いましょう」

 すぐにまた、たいまつに火がつく。十人の人がそこにいる。たいまつを持つ十人の祭司たちは、全員が白いローブを着ている。それらはアグマハドと同様、濃く金色の刺繍が施してある。その中にカーメン・バカもいる。彼の顔は熱烈な感じがする。恍惚の顔のようだ。

 アグマハドは、川の階段へ通じる戸を開く。今はたくさんの船がつながれてある。大きな祭壇の周りに壺が置いてあり、中から焚かれている香が強い香りを放っている。これらの壺は内側に、真っ赤な円が描かれており、何なのかわからない象徴もいっしょに描かれてある。船の横の側、高い甲板の下に、漕ぎ手たちが座っているーー白い服の祭司たちだ。皆、じっと動かず無言で、目を伏せて待機している。船は太い花輪が飾ってある。花輪は集まって、船が出発し太い綱のように見える時まで、塊となっている。船の先端にはそれぞれ、ランプが燃えている。

 我々は船に乗り込む。最初にアグマハドが乗り、人の輪の中央に立つ。私は彼の側の自分の位置につく。私とアグマハドの間に、はっきりと見えるのはあの姿だ。女神は至聖所を照らすあの光と同じ輝きを発している。あまり輝くとは言えぬ光だ。私以外の誰も、彼女がそこにいることがわからないのが見て取れる。

 十人の祭司たちも船に乗り込み、真っ赤な円の中に位置を占める。こうして我々は円の中に取り囲まれる。それから船はゆっくりと階段のある岸から離れる。いくつもの船が私たちの先になったり、後になったりする。すべての船に花とランプが飾られ、白い服の祭司たちを乗せている。静かに行列は聖なる川の真ん中にぶつかり、そこから街へ向かって進んで行く。

 ついに神殿の外側に出ると、遠いささやきのような音が聞こえ、それは大気に広がっている。長くて深いその音をけげんに思い、私は震えるが、それ以外は何も起こらず、すぐにその音のわけもわかった。目が星の光の明るさに慣れてくると、川の両岸の地面いっぱいに押し寄せた、揺れている大衆の姿を私は見る。とても大勢の人々が川の縁にぎっしりと立ち、目に入る限り野原をいっぱいに埋めている。この祭りは大きな祭りで、私は知らなかった。しばらく不思議に思うのだった。しかしすぐに思い出した。実はこの祭りのことは聞いたことがあったが、周りにある今の楽しみに没頭していて、気にとめなかったのだ。おそらく今まで街に住んでいた時に、私は群衆の仲間に加わるべきだったのだ。しかし今、群衆から隔離され、あのすべてが人間らしく思われる。私はアグマハドと同じように黙って佇み、動かない。けれども、私の魂は正体不明の絶望に引きちぎられ、まだ来ていない未知のものへの恐怖に打ちひしがれるのだった。

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第二部 1章

  ここは神殿の庭園。大きな木が深い影を落とす真下で、私は草の上に横になっている。疲れきっている。一晩中、至聖所の前で暗闇の霊のメッセージを祭司たちに話して聞かせていたのである。暖かい空気の中でウトウトし、不思議にも悲しみでいっぱいになって目覚める。私の若さはもう去ってしまったと感じる。まだ燃えるような情熱も味わったことのないままで。
  私の両脇には若い祭司たちがいる。一人が幅の広い葉っぱであおいでくれている。頭上の木から彼が取った葉っぱだ。もう一人は草についた手にもたれて、真剣に私を気づかっている。大きくて黒く、美しい彼の目は、優しい動物の目に似ている。しばしば私は彼の美しさに見とれた。横にいてくれるのがうれしい。
  「ほらご覧なさい、あなたさまは室内にいすぎるのですよ」彼は私が疲れきった目を見開いて顔を見つめるとそう言う。「あなたさまが唯一、生命を与えてくださる方だからといって、誰も神殿の儀式ぜめであなたを殺したくはないでしょう。街までご一緒して、神殿の空気と違ったことを体験しませんか?」
  「無理だ」と答える。

  「無理ですって?」と彼、マーレンが軽蔑するかのように言う。「私たちがここに監禁された囚人とお思いで?」
  「ここからうまく抜け出せたとしても、人々にばれるだろう。祭司は人々の中へ出て行かないものだから」
  「街の人々は私たちが誰なのかわからないでしょう」とマーレンは陽気に笑って言う。「アグマハドは自由をくださった。アグマハドは能力をくださった。行きましょう、よろしかったらーーさあ」
  二人は立ち上がり、私を立たせるために手を差し伸べる。だがもう私は弱っていない。はじかれたように立ち上がり、白い服を整える。そして「このローブを着ていくのか?」と問う。
  「ええ、ええ、ですが誰も私たちのことを知らないでしょう。物乞いとして行きましょう。または王子様の一行として。何のふりがいいですかね。アグマハドは能力をくださった。行きましょう!」
  冒険を期待して、彼らと同じくらい私はうれしいのだった。私たちは庭園を走って横切り、壁のところの狭い門にやって来る。マーレンがそれに触れる。押すとすぐに開く。私たちは神殿の外へ出る。
  連れの二人は行きながら笑い、しゃべっている。平原を横切り、私たちは街へと走る。私もまた走りながら、二人がしゃべるのを聞いている。だが何と言っているのか、ほとんどわからない。明らかに二人は街を知っている。私がその名称しか知らない、街を。確かに田舎者のはだしの少年だった私は母と共に街を通り抜けたのだったが。今は家々の中へ入り、偉大なお金持ちの人々と交流することになっている。そう思うと怖くなる。
  私たちは最もにぎやかな繁華街の一つへと急ぐ。美しい服を着た愉快そうな人々でごった返している。そして店という店はみんな宝石類しか売っていないようだ。それから大きな門構えをくぐって中庭へ入り、大理石の大広間へと進んで行く。そこは大きな噴水が勢いよくしぶきを上げていて、花咲く巨木が強い芳香を放っている。
  幅広い大理石の階段がこの大広間から外へと続いており、私たちはすぐに上り始める。一番上まで上りきると、マーレンが戸を開き、私たちは壁の全面に金色のタペストリーが掛けられた部屋へ入って行く。そこにはたくさんの人がいて宝石と服がきらびやかに私の目をくらませる。人々はテーブルを丸く囲んで座り、ぶどう酒を飲み、甘い菓子を食べている。おしゃべりと笑い声がガヤガヤと賑やかに部屋を埋め尽くし、香水の香りも満ちている。三人の大変美しい女性が立ち上がって、私たちを出迎える。私たち三人のそれぞれに一人がついて、手を取り隣へ座らせる。饗宴の時のようだ。私たちは笑って人々に混じり、ご馳走が全部食べ尽くされるまで座り通したみたいだ。香り高いぶどう酒を飲んだせいか、はたまた刺繍されたテーブルクロスの上で私の手に幾度となく美しい手が触れるという魔法のせいなのかわからないが、頭がフラフラしてきて妙な感じになり、一時間前だったら私の「理解したい」という望みが勝って退屈だったろうに、これまで知りもしなかったことをしゃべり、誰かの言ったことに笑っているのだった。
  私の隣に座った女性は、私の手を握りしめる。彼女を見る。彼女がもたれかかる。その顔は若さと美しさに輝く。華麗なドレスは横にいる私に、自分が子供であるかのように感じさせた。だがこうして今彼女を見ると若い。私自身より若いが、このように華麗な格好をしてまばゆいばかりの愛らしさであるので、子供時代にもさぞや魅力的な女性だったのだろう。その優しい目を見つめながら、彼女のことをよく知っているような気がしてきた。その魅力が見知ったものであり、よく知っていると感じることが魅力的だと感じることよりも強いのだった。彼女は多くのことを私に話したが、最初はほとんど理解できなかった。それどころか、まるで聞こえなかった。だが耳を傾けるにつれてしだいに理解できるようになった。彼女は言う。私がいないと恋しい、私を愛している、私以外のものにはすべて飽き飽きしている、と。「あなたが行ってしまったらまた戻って来るまで部屋の中は暗く、静まり返っているわ。晩餐会なんて何の楽しみもない。他の人たちは笑うけれど、その笑いは私の耳にはむせび泣きのように聞こえるんだものーー苦しみのむせび泣きに。それは私の代わりに泣いているの? 若くて丈夫で愛に満ちた私が、そのように悲しいはずがあって? いいえーーいいえ、わたしの泣き声ではないわ。ああ恋人よ、私の夫よ、二度とふたたび私を独りにしないで。そばにいて、そうすればこの愛の情熱があなたに天意を果たす強さを与えるから」
 私はサッと立ち上がり、彼女の手をギュッと握りしめる。
 「そうだとも」思わず大声で言う。「人生の栄光を顧みないなんて悪いことをした。告白するよ、私のものであるあなたの美しさは、心からぬぐい取られていたんだ。でも今はこうして自分の目であなたを見て、これほどの美を天にも地にも、他に見たことがあっただろうか」
 私が話していると急に、びっくりしたお客たちの中に動きが起こる。みごとな素早さで彼らはテーブルを離れ、いきなり部屋から出て行く。二人の若い祭司だけが残る。二人は私をじっと見ている。死んだみたいに深刻そうで、動揺しているようだ。二人ともゆっくりと立ち上がる。「神殿へお帰りにならないんですか?」とマーレンが言う。私はイライラする心を身ぶりで伝える。マーレンが聞く。「お忘れですか? 私たちが街の愚劣さを見て、それが土からなる人間の手により為されると知るために来たのを。おわかりでしょう、イニシエーションを受けた祭司は純潔を保たねばなりません。あなたさまはどうなのですか? 神殿の透視能力者よ。修練者にすぎない私でさえ、あえて自由に激しく恋い焦がれる心で魂を満たしたりしません。ああ、自由! 街の子に生まれていたなら、人生の意義を知っていたなら! でもそうする勇気がありません。まさしく私は修練者にほかならず、神殿に地位はなく、世の中に居場所はありません。あなたさまはどうでしょう、透視能力者よ? アグマハドにあなたさまのことをどうお伝えすればよいのですか?」
 私は答えない。だが横に座っていた彼女が立って、マーレンへと進み出る。彼女は首からジュエリーを外し、マーレンの手にのせる。
 「これをアグマハドに渡して。そうすればそれ以上何も聞かれないでしょう」

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11章

 目が覚めると昼の光が燦々と降り注いでいる。ぐっすりとよく眠ったものだ。花でいっぱいの私の部屋は、まるで庭園だ。目は喜んで花から花へとさまようが、すぐにある物体が照らし出され目線がくぎ付けになる。部屋の真ん中でひざまずく人の姿だ。一人の祭司が低く頭を下げている。私はそれが誰だかわかる。カーメン・バカだ。そばへ行く。そしてかすかな音で合図し、頭を上げさせ、こちらを向かせる。彼のそばに来る途中、私の横に本が開いて置いてあるのを見つけた。その本のページをじっと見る。その光る文字を見、無意識に声に出して読んでいる。ついに読み終えた時、それ以上は普通の言葉ではなくヒエログリフになっていて、読めなくなっていた。

 カーメン・バカは飛び上がるように立った。見ると顔全体が狂ったように喜びに燃えている。

 「あの者が、今日私の足に口づけするぞ」と彼は声高に言う。それから不思議そうに見ている私に言う。「全部読んでくれませんか?」

 「今わかるのはこれだけなんです。残りの部分は知らない文字なのでわかりません」と答える。

 カーメンはすぐに部屋を出て行く。彼を異様に興奮させた言葉を見ようとあの本のページに目をやる。そこに書かれた言葉はもう理解できなくなっている――すべてヒエログリフに変わっている――。がっかりだ。自分で読んだ言葉がもう思い出せないとわかったからだ。この奇妙な出来事にとまどい、しだいに疲れてくる。そしてとうとう、不可解な本の開いたページに頭をのせ、また眠り込んでしまう。深い、夢のない眠りから、私は音にびっくりするまで目覚めなかった。気がつくと部屋に若い祭司が二人いる。ケーキとミルクを手にしていて、私に差し出すためひざまずく。私は怖かった。そうでなければ笑っていたろう。田舎から来た少年にこんなふうにひざまずいて傅くなんて。食べる間、彼らは立ち去る。だが長くは一人でなはかった。カーテンが引かれ中へ入って来た人を見て、飛び上がって笑ってしまう。庭師のセボウアだった。

 「どうしてここへ来られたの? 本当にもう二度と会えないと思ったよ」

 「アグマハドがあっしをここへ来させたんだ」と彼は言う。

 「アグマハドが!」驚いてそう言う。彼に近寄り、その腕を手で握ってみる。

 「そうとも、あっしは本物のあっしだ。あっしの幻影なんて作れるわけない。おまえさんがあっしを見たら、それは本物だから信じるんだ」

 そのように彼は怒った口調でなげやりに言い、ほんの少しの間おびえるが、それもそう長くはない。醜い顔にあのちょっと変な微笑みが浮かぶ

 「おまえさんは庭園へ来ることになった、あっしのもとにな」と彼は言い、黒くて大きい手を広げる。そこへ私の手を置く。そして一緒に部屋を出てすばやく空っぽの大きな部屋をいくつか通り過ぎ、神殿の長い廊下を進み、かつて初めてセボウアの顔を見たあの鉄の扉のある狭い入り口に着く。当時のように今も、庭園は向こうで輝き、緑と光と色彩のビジョンとして光る。

 「わあ! ここに戻って来られてうれしいな」

 「おまえさんは最初にここへ働きに来た。あっしと一緒にせっせと働くことになってたんだ」とセボウアは自慢げに言う。「今ではすべてが変わってしまった。おまえさんは遊んでいて、働かない。そしてあっしはおまえさんを小さな王子様みたいに扱うことになってる。いやはや! もうスポイルされちまったのかなァ、坊や? 水浴びしなさるか?」

 「だけど、どの池で? 僕、池の冷たくて深い水に飛び込んで泳ぎたいよ」

 「泳げるのか? 水が好きだって? よしおいで、本当に冷たくて深い池に連れて行ってあげよう。一緒に行こう!」

 セボウアは歩いて行く。私はついて行くため早足で歩く。歩きながらセボウアは何かぶつぶつ言っているが、聞き取れない。本当は聞いてなどいなかった。私はただこんな暑くてだるい朝に、冷たい池へ飛び込むのは素敵なことだと考えていたのだ。

 大きくて深い池に着く。どこか上の方から素早く水がポタッ、ポタッと滴り落ちて来る。

 「ほら池だ。花ははないから泳いでも損なう心配はないよ」とセボウアは言う。

 暖かい日差しの中、池の縁に立ち、白いローブを脱ぎ捨てる。そして見回し、なんて素敵な太陽だろうと思う間もなく、一気に水中へ飛び込む。わあ! 冷たい! ほとんど息もつけぬほどの冷たさに驚く。でも私は泳ぎ出す。すぐに肌を刺すような水の爽快感がうれしくなる。この快い爽やかな水の中で強く、鋭く、そう感じる。ここには神殿の中のきつい香の香りや部屋の中に濃厚に香る花々に囲まれるけだるさはない。とても幸せだ。いつまでも太陽の光に包まれこの水の中にいたい。すぐに泳ぐのをやめ、ぼんやりと水面に浮かぶ。太陽の光に目を傷めないよう閉じる。

 その時、急に何かがとても異様に感じられ、息ができなくなる。でもそれは穏やかなので恐怖は感じない。それは口づけだった。目を開ける。横で水面に浮いているのは、私の女神、睡蓮の女神だった。おもわず口から歓声が漏れる。ただちに、最後に女神がいなくなって以来の喜びが心からあふれ出たのだ。私の女神、美しい友がそこにいるだけで全世界の他のものは無に等しくなる。

 「坊や、また私のところへ戻って来ましたね。でもすぐにまた私のもとを去ってしまうでしょう。あなたが私のことをすっかり忘れてしまったら、どうやって助ければいいのでしょう」と女神は言う。

 恥ずかしくて返事できない。本当に忘れていたなんて、ほとんど信じられないが、それは事実だ。

 「あなたが浮かんでいるこの池は、天界の、我が花・睡蓮が住まう場所より水が流れて来ているのです。あなたが死ぬ時にはそこへ行くでしょうから、水の中に睡蓮の花たちは住んでいます。でもそこから滴る水は少ししかない花たちの命なのです。花々にはもう滴らないのです。蓮池へ飛び込むとあなたは鷲のように強くなり、生まれたばかりの若い生命のように情熱にあふれるでしょう。我が子よ、強くありなさい。あなたを誤らせる、へつらう者の言うことを聞いてはなりません。私が日の光の下におく者の言うことだけを信じなさい。幻に惑わされてはなりません。生きているものの命があなたを待っているのですから。知識と愛の清い花が喜んであなたに摘まれようとしているのです。自分たちのためだけを望む者たちに、ただの道具として使われるのですか? とんでもないこと! 知識を得て強くなりなさい。その上であなたは世界に光を与える者となるでしょう」

 この言葉は私が目覚めるのと同時に耳に囁かれるように感じた。言われたことを何度も何度も繰り返して、一語一語を正確に記憶した。しかしそれは私にとって漠然とし、意味をなさないものであった。最初に聞いた時は理解したように思えたが、今の私にとってそれは、お祭りの時に踊り手たちに説教師が教えを説くようなことだった。

 

*   *   *   *   *   *   *

 

 あの言葉が耳もとに囁かれた時、私はまだ子供だった――少年で無力だった。無知で幼すぎた。時がたち成長する間、睡蓮の女神から私の魂に呼びかける声は意味のわからぬまま、脳のはっきりしない部分でかすかに鳴り響いた。女神からの声は、祭司が幼い私に歌った歌のように、まるで音楽のように聞こえた。今もまだ忘れはしない。私の人生は霊も肉体も縛りつけておく者たちに明け渡された。重い足かせがまだ覚醒していない私の魂にはめられていた。体は神殿の支配者たちの指導にぼんやりと明け渡しながらも、大空の下に自由が存在することを、私は知っていた! しかし彼らに盲目的に従ったけれど、そして神聖さの汚された神殿の卑しい目的に私の強さと力のすべてを与えてしまったけれど、ハートの中では美しい女神の思い出をしっかりつかんでいた。そして心の中に、女神の言葉が消えぬ火の文字で書きつけられていたのであった。背丈が大人の大きさにまで伸びたけれど、内なる魂は弱々しくはっきりしていなかった。魂の中に女神の言葉は星のようにとどまり、私の不運な人生に不思議な光を投げかけた。そして私が精神的に大人になるにつれこのことに気づき、死や絶望に達するほどにまで極度に疲れ果て、世界のあらゆる美を自分から遮断したのだ。陽気な子供、幸福な太陽の光の子から、私は悲しい青年に成長した。大きな目に涙があふれそうな、悲しいハートの中にたくさんの秘密を隠している、恥辱と罪と悲哀を半分しか理解できない青年に。時おり、庭園を通って行く時、蓮池の静かな水面を見つめてあのビジョンをまた見られるよう祈った。だがそれは叶わなかった。子供時代の無垢さは失われ、人としての強さもまだ持っていなかった。

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10章

 「カーメン・バカに伝えよ、そなたの心の欲望を私は知っている、そしてそれは叶う、と。だがそれにはまず、あの運命の言葉を言わなければならない。」

 アグマハドはおじぎをすると向こうへ向き直り、黙って至聖所を後にする。

 また女神と二人きりだ。彼女は近寄って来て、怖ろしい目で私の目をくぎ付けにする。

 じっと見ていると女神は私の前から消えてゆく。そこには金色の光が残り、中にだんだんある形ができてゆく。これまでに見たどんなものよりも美しい。

 木だ。葉をいっぱいにつけているが、葉というよりも柔らかな髪が垂れているかのようだ。それぞれの枝にはたくさんの花が厚い花びらを開き、金色や、派手で華やかな色の鳥たちが飛び交い、燃え立つような花々の間をあちらこちらでさっとかすめる。ついに目がくらんで言う。「この鳥を一羽、僕にちょうだい。この花の中と同じように僕のもとで快適に過ごさせてあげるよ」

 「百羽あげよう。鳥たちはそなたが大好きになり、そなたの口にキスをし、そなたの唇から餌をもらうであろう。後でそなたはこの木と同じような木の生えた庭園を持つことだろう。鳥たちはみな、そなたが好きになる。でもまず私の命令どおりにしなければならないよ。カーメンに言って、至聖所に入って来させよ」

 私は言う。「入りなさい。カーメン・バカ祭司よ、入るのです」

 彼は来た。奥の洞窟の入り口から中に入り立っている。木は消え失せ、私の前に黒い姿が、光るローブをしなだらせ、冷酷な目を光らせている。その目は祭司に据えられている。

 女神はゆっくりと言う。「彼にお言い、その心の飢えは満たされるだろう、と。その者は愛を欲しているのだ――それを手に入れるであろう。神殿の祭司たちは冷たい顔を向け、その者は皆の心が石のように感じられるだろう。そして皆が周りでひざまずくのを見たいと思うであろう。皆がその者を崇め、すすんで虜になるのを。今までのように彼が私のものであることを受け入れるならば、それは実現するだろう。皆の心の欲情を満足させ、その代わりに皆は彼一人を台座に載せて崇めるだろう、私だけのものである彼を。十分にすばらしい褒美であろう?」

 女神はその言葉を強い軽蔑をこめて石に示し、その怖い顔にカーメンの狭く限られた大望をさげすんでいるのが見て取れる。私がその言葉を読み上げるにつれて皮肉な意味合いは消えてゆく。

 カーメンは頭を下げる。その顔に異様な歓喜の輝きが表れる。

 「仰せの通りです」と彼は言う。

 「ではあの運命の言葉を口にせよ!」

 カーメン・バカはひざまずき、頭上高く手で輪をつくる。顔が苦しみの表情に変わる。

 「今より後、すべての人が私を愛しても、私は誰も愛しません!」

 黒い姿はすべり寄り、手をカーメンの頭に触れる。「そなたは私のもの」と女神は言い、背を向ける。その微笑みは暗くて冷たく、顔は北方の凍りつく寒さのようだ。女神がカーメンに教えと導きを与えるつもりであることがわかった。アグマハドに対しては、どちらかと言うと女王がその寵児に話すようだ。重んじると同時に恐れている寵児、強さを持った者に。

 「さあ坊や、やることがあるのだよ」女神は近づき、そう言う。「この本の中に、私の奉仕者となるであろう祭司たちの胸の内が書かれてある。そなたは疲れており、休まねばならない。私はあの者たちのように、そなたを害するような真似はせぬ。私がひいきにするにふさわしい強い男に育ちなさい。さあこの本をかかえて持ってお行き。早朝、起きるとすぐにカーメンが来るだろうから、最初のページを読んで聞かせるのだ。最初の課題を成し遂げられたら、彼は再び早朝にあなたの所へやって来るであろう。そうしたら二番目のページを読んでやるがよい。そのようにして最後まで読み終えなさい。今言ったことをカーメンに伝えて、難しいからとて一時たりともあきらめぬよう言うのだ。困難を乗り越えるたびに彼は力を増し、すべてを成し遂げた後には最高の高みに立っているであろう」

 言われたことをカーメンに伝える。入口に立って両手を胸のところで握り、頭を垂れているので、カーメンの顔は見えない。だが言葉を伝え終わると彼は頭を上げ、「従います」と言う。

 その顔は前に見たような異様な輝きを今も帯びている。

 女神は言う。「彼に行くよう言うのだ。そしてアグマハドにここへ来るよう伝えよ、と」

 その言葉を伝えると、カーメンは静かに出て行く。その身のこなしから、彼の目にはここはすべてが闇であるとわかる。

 しばらくたってアグマハドが入り口のところに立つ。女神は近寄り、手を彼の額に当てる。すぐにそこに王冠が現れる。アグマハドは微笑む。

 「それはそなたのものとなろう」と女神は言い、さらに続ける。「アグマハドにこう言うがよい。それは最も偉大な王冠。ただしこの世で、だ。もっと偉大な王冠があるが彼はそれを戴くことはできぬ。さあ、彼に指示をお出し。あなたを腕で抱き上げ、寝台へ横たえなさい、と。あなたは本をしっかり抱えなさい」

 その言葉をくり返して伝えている間に、女神はそばへ来て私の額に触れる。とても快いけだるさが訪れる。女神の言葉は伝えるそばから、私の唇より立ち消えてゆく。でも二度言い直すことはできず、すべてが薄れてゆく。私は眠ってしまう。

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